ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

カノトイハナサガモノラ 感想・考察?

お久しぶりです!
8/8、12にカノトイハナサガモノラを観劇してきました。遅ればせながら感想等々残しておこうと思います。個人的に、戸惑いの惑星がクリティカルヒットだったので、「今回はもっと気軽に見られるかな〜」などと思っていましたがとんでもない。とんでもない舞台でした。
 
全体を通して考えたこと、それぞれの登場人物について、単純な萌えポイントの三項目で書いていこうと思います。長いよ!
 

 


〇全体を通して考えたこと・感じたこと
・生と死の要素
この舞台には、大きく二つの生と死の要素が内包されているようでした。
①名乗るたびに「デス」と付くから死んでるよ、そしてまた生まれてるよ、という一連の流れと楽曲。なぜ自己紹介するたびに死ぬのか、という点についてはまた後で。
②彼らは魂だけの存在であり、彼らがいるのがソウルターミナルであるということ。ただの駅ではなく、終着駅であり始発駅でもあるターミナルであることが肝だと思います。
これら①②の生と死の要素を結びつけると、ステージで名乗り(アイドルとして活動し)、そこで死んだ魂がソウルターミナルにやってきて、そこからまた新たに生まれてステージに帰っていく…とつなげることができるのではないでしょうか。つまり、ステージの上で一度「死」に、改めて「生」まれ直すその瞬間を、2時間に引き延ばしたのが、今回のカノトイハナサガモノラであると感じました。
 
・言葉の持つ難しさ
ではなぜ、自己紹介が生と死につながるのか。これは舞台の中で繰り返し語られる「言葉のもつ難しさ」と結びつくのではないかなと思います。今感じているこの「感じ」を、言葉にすると少し違う。自己紹介もまた、自分が何者であるか言葉にすることですから、サカモト、ナガノ、イノハラが、それぞれ言葉にして自分を規定することによってもまた、ズレが生じることとなります。言葉にした時点で、その人個人は、言葉が持つイメージで固定されてしまうのです。これを、オーナーは死と表現したのではないでしょうか。
ではなぜその死が生につながるのか。それは、彼らがアイドルであることそのものに因るのではないでしょうか。
アイドルの語源を探ってみると、ギリシア語のエイドスまで遡ることができます。エイドスは、実体をもたない像とか、とらえられるイメージとかそんな感じの意味です。アイドルもまた、実体であるその人個人と「アイドル」のファン、その間に結ばれた像を楽しむお約束のようなものだと思っています。そこで結ばれた像は、実体である個人その人そのものではないので、絶対にズレが生じます。しかし、ファンはその提供されたイメージ(身体的イメージも含む)を「アイドルその人」として応援し、そういう関係性がアイドル産業を動かしていきます。
つまり、自己紹介をすることが、個人としてのイメージが固定化される「死」であると同時に、そのイメージそのものが新たな表現、新たなつながりに結びつく「生」でもある、ということになるんじゃないかぁと思っています。労働力を売り物にするサラリーマンや、運動能力を売り物にするスポーツ選手とは違い、個人のキャラクターそのものが商品となるアイドルだからこそできた舞台です。
 
こう考えると、「素の三人によるカーテンコールだと思ったらそれもまた劇の一部だった」という、2回目以降はちょっとぞっとするようなメタ的演出も、決して怖い意味ではないと思っています。
アイドルとして板の上に立つ以上、生と死を内包している、つまりソウル・ターミナルを経由することは必然だとするならば、あの演出は彼らがアイドルであることの証左でもあります。
ソウルターミナルからそれぞれの道へ去って行っても(ソロ活動?)、トニセン三人がトニセン三人として板の上に立つたびに、彼らの再生を目の当たりにすることができるのです。
 
 
・手を取り合えば無重力
キャッチコピーについても一つ。響きもイメージもとても好きなのですが、よくよく考えると解釈が難しいコピーでもあります。「言葉(記号)」と「意味」が持つ関係としては、ソシュールの考え方が現代思想の下地になっています。どんな考え方かというと、記号による表象(シニフィアン)とそれが意味する概念(シニフィエ)は、恣意的に結びついているわけではない、というものです。たとえば私たちの頭上に広がっているものは、「空」であり「sky」であり…といったように代替可能で、概念と表象との間に必然性はありません。さらに言えば、概念を言葉によって切り取ることにも、必然性はありません。虹が何色かは文化圏によって違う、というのと同じような感じです。
作中でも言われている通り、言葉による記号そのものが大事なわけではありません。大事なのはその気持ちであり、概念そのもの、シニフィエです。だから、三人であることを示す記号であるシニフィアンは、「サカモトナガノイノハラ」でも「カノトイハナサガモノラ」でもいいわけです。
私にとって「無重力」という言葉が持つイメージは、重力によって上下左右が固定された私たちの世界から解放されたもの、というものです。だから、サカモノナガノイノハラがバラバラになってカノトイハナサガモノラとなることは、無重力を表しているように感じられます。(余談ですが、とある本で、無重力空間である宇宙ステーションでのミーティングでは、上の方が偉いとか中心の方が偉いとかいう常識が無意味になるため、リーダーの頭の上で指示を聞く、なんてことも茶飯事だと読んだことがあります。上下左右のある地球との通信、特にお偉いさんとの通信では、重力式に合わせてリーダー中心に並んだりするそうですが。こんな風に、重力に支配された私たちとは異なる感覚をもつことができるようになるそうです。)記号によって規定された世界、重力のある世界にあっても、彼ら三人が手を取り合えば、それらから解放された概念そのものの世界だって作り出すことができる、といったイメージを覚えました。


 
〇登場人物について
・ナガノ
「戸惑いの惑星」が長谷川君をストーリーテラーとするお話であるとするならば、カノトイハナサガモノラはナガノをストーリーテラーとするお話だと思っています。彼は本質的に存在そのものがアイドルです(キメ顔(≒アイドル)をするのは、自分の意志でも義務でもなく、ただ突き動かされる使命による)。言葉を超えた感覚としてそれを持っているというのが重要だったんだろうなぁと...。楽曲の方のカノトイハナサガモノラにナガノの文字がないのも、あれがナガノ視点だからでしょう。
加えて、他の二人との違いとしては、
・ソロパートでは唯一、オーナーとの問答が中心となっており、かつ対等に渡り合えている。
・第四の壁を突き破って、私たち客席の人間に対する演出(マジック)が用いられている。
あたりが気になりました。アイドルであることに疑問を持ったり、定義づけをしたりすることなく、当たり前のこととして板の上に立つことができる人間であるということ、アイドルであることに不可欠な「観客との関係、観客への投げかけ」を意識できているということでしょうか。
グラサンをしていたため記憶が完全に消されない、というのも、たまたまグラサンをかけていたというより、繰り返しの中でかすかに残った刷り込みにより、事前にグラサンを持つようになったということだと感じています。
リアルの長野くんと照らし合わせてみても、その芯の強さ、決して主張は強くないけれど自分の信念を確固として持っている様子が通じ合っていて、とてもよかったです。個人的に、2017年コンサートの誕生日の際、真剣に「これからも踊り続けていきたい」と言ってくれた時の頼もしさに通じるものを感じ、うれしかったです。
 


・イノハラ
このお話における狂言回し的存在でしょうか。私がイメージしている「井ノ原快彦」より少し荒れていて結構鈍感な印象でした。御徒町凧さんといちばん深く付き合いがあるので、キャラクターとして動かしやすかったのかもしれません。
彼は作中で言われている通り、唯一自分の意志でアイドルになった人です。どうしてアイドルになったかを、かつての自分との対話の中から見つめ直し、もっと高く、きれいな景色が見える場所へ行きたい⇒フライング、という、あまりにもきれいな演出で心地よかったソロパートでした。息子に向けた歌詞と思われる「遠いところまで」をこのような解釈で「君の歌」にしてしまう手腕に脱帽です。エモい。
 


・サカモト
彼に関しては、本人のエピソードと、アイドル坂本昌行としての作品でもあるソロ曲のエピソードが混ざり合い、一番解釈が難しかったです。ナガノ・イノハラともにオーナーの問いに向き合い、それぞれの答えを持っていますが、サカモトに関してはそのような問答はありません。坂本さん個人ではなくサカモトの、さらに「コバルトブルー」に委託した語り口であり、そこにはアイドルを客体化したものはありません。「ここにいないみたいなときあるよ」という確信をつくようなセリフに対する戸惑いやいら立ちを、タップダンスというパフォーマンスを通して発露させる、というあり方は、彼のアイドル像を象徴しているのかもしれません。
坂本さんはあんまり自己主張しない、自分について語らない人です。本人のいうように、何も考えていないだけ、なのかもしれませんが、ずっと坂本さんを追いかけている身からすると「ここにいないみたいなときあるよ」というセリフはぐさりと刺されたような感覚でした。(ここ、女性に「ほんとのあなたが分からない」と言われて別れたって話が元ネタですかね...。)
一方で、三人そろってソウルターミナルから外に出ていくためのターニングポイントである「愛なんだ」は、彼がはじめにくちずさんだものでもあります。一番変化を恐れていた男が口火を切る、その変化は「言葉」として語られていないからこそ、この舞台のテーマの一端を担っている存在でもあると思います。
余談ですが、眠りから目覚めたとき、なぜかナガノが浮くギャグシーンも、「一番この場(ソウル・ターミナル)からいなくなる可能性が高いナガノ(空に近い)」「次に可能性があるイノハラ(箱の上に立っている)」「まだ囚われているサカモト(地面にいる)」っていう意味もあるのかなーなんて思いました。
 


初めに言ったとおり、戸惑いの惑星が大好きだった人間なので、「今回の舞台はどうなるんだろう」という不安な気持ちも若干あったのですが、それを完全に吹き飛ばしてくれる本当に良い舞台でした。
そして、いずれの舞台も、トニ3人と親しい方による、トニとの語らいの中から生まれた作品でもあるので、本当に彼らを好きでいて良かったと幸せな気持ちにさせてもらえるものでした。
トニセンのお三方、御徒町凧さん、上田さんをはじめカンパニーの皆様、素晴らしい作品をありがとうございました。つらつら書かせていただいたのも、解釈は百人いたら百様だといってくれたからです。
ロビーでカノトイハナサガモノラ(曲)が流れていたので、おそらくCD・DVDの発売がされるだろうとは思いますが、絶対に何らかの媒体として残してもらえるよう、お手紙等頑張ります。
 
トニセンがトニセンとしてアイドル活動をしてくれることに対する圧倒的感謝!!
 
 
ここから下は、単なる感想・萌えどころの羅列です。
 
・新曲三曲とも素晴らしすぎない?20thデスは単純にサウンドも歌い方もめちゃくちゃ楽しいし、トライアングルはエモさの極みだし坂本さんののびやかな声が最高だし、舞台のテーマソングでありトニセンのテーマソングにもなるカノトイ~はもう感無量。
・2回入ったうち、なんと1回は下手側通路わきの3列目、次は2列目だったので信じられないほど近かった…。近すぎたのでどんな顔していいかわからなくて、「だ…駄目だ…まだ笑うな…こらえるんだ…し、しかし…」な顔をしていた。
・特に坂本さんが階段のところで歌うシーン、視界に入りきらない坂本昌行でした。視界に入りきらない坂本昌行
・目の前、目線の高さで自担に足を組まれて正気でいられる人間がいたら教えてほしい。靴底が見える…タップだ…ととりとめもなく思った。
・そして確実に数秒間井ノ原君と目が合った…。曲中5秒ぐらい?パニックだった。
・トニ曲で一番好きなwishesを目の前で聞けたのが夢みたいだ。
・stranger than paradiseのバックについた坂イノの、ゆっくり片足を下げながら前傾姿勢になるところ、坂本さんはまっすぐ前を向いたままで井ノ原君は体に合わせて顔も伏せていく、という違いがあってなんかすごくよかった。
・長野くんアフレコめちゃくちゃ上手いな!
・ほんの数m先で繰り広げられるわちゃわちゃ、自分がどんな顔で見ていたか想像したくない。
・台本とはいえ目の前で自担に彼女いない宣言されるの、なかなかになかなかな体験だった。(私はいつでも坂本さんの幸せを願っています。)
・腰にシャツを巻いたスタイルのいのはら君、ガチ恋製造機スタイルだし後姿完全に大学生出し、その姿でギターをかき鳴らした日にゃ国民の彼氏だ…。
・サカモトとオンナの茶番の間、座ってみてるいのはら君もだいぶ表情豊かでかわいかった。
・他の人のは確認できなかったけど、長野君のスーツの後ろの切れ込み(?)がチャックになってるのがかわいかった。
・フライング準備ができたら背中をポンとたたくの、ジュニアっぽくて大変良い。
・長野君の肌がすべすべなのは周知の事実だけと、腕までとぅるとぅるでほんとに不惑か?
・舞台終わったら長野君のことピスタチオって呼んでいい?これも言葉はそんなに意味がないってことだろうけど、ピスタチオでなんかしっくるくる長野君がすごい。
・マジックのサポートをするいのはら君、無機質な表情をする井ノ原快彦大好きマンからすると滾った。
・マイクを渡しあったり、自然と立ち位置についたりといった「アイドル」感、良い。


思い出したら追記します!