ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

井ノ原くんの歌に光明を見た話

コロナウイルスにより、世界中が苦しい状況を強いられている昨今。井ノ原くんが、毎日更新のブログ「イノなき」を再開した。その中で、彼の自作ソングを披露してくれている。

以前から気配を感じていたものの存在を確認できなかったネコを、すりガラスの向こうに激写できたことをきっかけに制作された歌だ。サビだけ引用すると

 

自宅にいなけりゃあなたにも出会えてなかったよ

 

私はこの歌を聴いて、びっくりするほど気持ちが救われた。断っておくが、歌自体は優しいメロディーラインと井ノ原くんらしい言葉がちりばめられた、明るい楽曲だ。でもここから先は、私の考えをとつとつと綴った、あんまり明るくない話になる。

 

 

 

 

大変な状況の中でいろいろなものを目にして、ぐるぐると考えることが増えている。

今、医療やインフラ関係の、最前線で対応してくれている人への支援と感謝を忘れずに、そうでない人はできる限り接触を控えて今をしのごう、という大きな命題が、すべての人に課されるようになってきている。そんな状況の中で、思いがけない人間の温かさを感じる機会が増えたと同時に、今まで見ようとしてこなかった問題が浮き彫りになったり、正義の側に立っているからすべての行動が正当だと思い込んだ人による攻撃が散見されたりもしている。うれしいことも見たくないことも、ますます鮮やかになっているのだ。

このような、以前とは決定的に異なる空気の中で、人より表現に優れた人たちが、元気づけようとしたり、諫めようとしたり、感謝を表明しようとしたり、怒りを表明しようとしたりしている。

 

そこで多く見られるのが、「家にいよう、自粛しよう」という呼びかけだ。間違ってはいないはずだが、私はそれに得も言われぬ不安も抱いている。

自粛しようという言説は、自粛せねばならないという言説に変化する。

そしてそれはいつしか、なぜ自粛しない?に変わり、自粛する人としない人とを分断するようになる。引かなくてもいい境界を引くことになるのだ。

そして人間は、「私たち」と「私たち以外」に分かれた時、「私たち以外」を理解しようとすることをやめ、簡単に敵意を向けることができるようになる。「私たち」に正義があると思っていたらなおさらだ。

ウイルスを抑え込もうと思ったら、各々のできる範囲で自粛はするべきだし、そこに間違いはない。間違いはないからこそ、間違えた行動をしている「私たち以外」も人間であることを意識し、間違いの指摘を逸脱した中傷・攻撃に走ってはならない。民主主義を採用している以上、監視すべき対象は制度としての行政や立法であり、敵と認定した「私たち以外」ではない。そのような「私たち以外」を見つけて攻撃しようとする意志は、自ら望んでビッグブラザー*1を内在化するようになり、相互監視社会へとつながっていく。そのさきにあるのは、それぞれを理解したうえで気持ちよく生きるための住みわけではなく、排斥である。

 

もちろん、みんなで○○しよう!というほうが元気が出る場合もあるし、そちらのほうが性に合っている人も多いだろう。(自担である坂本さんも、そういう優しい人だ)上記のような変容が決定的になってしまうという予感は、杞憂で終わるものかもしれない。しかし、このような危険性をはらんでいることは、常に意識した上で慎重に使用されるべき言説だと思っている。私が危惧しているのは、今の状況では、そういった言葉が正当性の御旗のもとにあまりに簡単に用いられていることである。

 

 

と、このようなことを悶々と考えていた時に飛び込んできたのが、冒頭に述べたネコソングだ。私は自分のメンタルはそんなに弱くないと思っていたが、いつの間にか凝り固まってしまった考え方を和らげてくれたことに気づかされて、思わずほろりときてしまった。

 

この歌は、すごくミクロな「家にいたことによって、僕はこんないいことを見つけたよ」ということを歌っているだけのものだ。「だからみんなも家にいなきゃだめだよ」と言っているわけではない。たったこれだけの違いだが、この「ねばならない」という意味合いがなくなったことで、単に家にいるという思考停止から解放されて、自ら考え、気づく可能性を提示してくれているのだ。手段が目的化して暴走することなく、あくまで手段のその先に別の見方が存在しうることを示している。

 

さらに言うと、この「家にいたらいいことあったよ」というテーマの中でも、「新しい出会いがあった」という帰結は、井ノ原くん自身のミクロな世界の出来事であると同時に、それ以外の人にも当てはめることができる。例えば今まで気づくことができなかった子供の成長を実感できたとか、無駄な通勤時間を自己研鑽に充てられたとか、そのようなメリットは、ある程度限られた属性を持つ人でないと実感できない。むしろ、家にいる時間が増えたことで不幸な時間が増えた人もいるだろう。

そんな中で、「新しい出会い」という出来事は、かなり広い意味を持つことができる。本来出会いというものは、外に出かけて何かと触れ合って初めて得られる体験だ。それを、外界とは正反対の空間である自宅で見つけたという着眼点の転換に感動したのだ。

「出会い」というものは、物理的なものだけでなく、気づかなかった自分自身の面や、見落としていた小さな出来事にも適用できる。それは、いいことかもしれないし悪いことかもしれない。

そのような大小の変化を掬い上げて「出会い」とすることで、自己肯定につなげることができるのだ。カミセンをほめて伸ばした功労者の一人である井ノ原くんは、ネコソング(と、その後のブログ記事)によって、ファンさえも肯定してくれている。

 

 

井ノ原くんも、上で書いたような、私が勝手に危惧しているような言説をとることもあるだろう。でも少なくとも、このネコソングを生み出してくれたことで、(私の解釈の下では)本質的なところで分かってくれているのだという希望を抱かせてくれた。本当にありがとう。

 

可能なら、この歌がもっともっと広く知られれば嬉しいと思う反面、アイドルとファンというある種の構造の中だからこそ歌えるものかもしれないというちょっとした優越感もあり、なかなかめんどくさいファン心理である。

 

あとで恥ずかしくなって消すかもしれないけど、とても救われたことを、したためておきます。

 

 

*1:ジョージ・オーウェルによる小説「1984年」の登場人物(?)。主人公が暮らす国の最高指導者であるが、「彼はいつもあなたを見ている」 いうまでもない世界的名著だけれど、今の時代を生きる上で様々な示唆に富んでいるので、読んでいない人はぜひ読むことを検討してくれたらうれしいです。最悪途中の作中作評論分は飛ばしていい。