ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

遅ればせながら君が人生の時感想

本当に今更ながら、今年6月~7月に上演されていた「君が人生の時」について、所感を残してみようと思います。
端的に言えば、かなり感情移入しながら見ていました。人望や深さ等々まったくジョオには及ばないけれど、彼の感じる怒りや無力感に勝手に共感していました。以下、かなり私見の混じった独りよがりな駄文となり、読みやすさや共感をもとめる書き方は一切ありません。本当にただの備忘録として残します。(のでですます調でさえなくなるので、なんか偉そうで申し訳ない…。)

 

 



前提として、私は幸運にも図書館で借りて君が人生の時の戯曲を読むことができている。坂本さんもたびたびインタビュー等で触れていたが、戯曲の序文には、本作品のテーマが凝縮されている。これを読むか読まないかで理解のしやすさが大きく違うと思われる。

そして、私はそこにあるサローヤンの思想に深く共感した。『如何なる場所にも善なるものを求めよ。そして、それを発見したならば、その隠れたる場所より明るみに出し、それを自由な、自ら恥じざるものとせよ。』『如何なる人の罪も同時に君自身の罪にほかならず、また如何なる人の潔白も決して君自身に無関係なるものとは云えぬ。』『親切で温情ある人間たることを恥ずるなかれ。』等々…。 こういう態度、どんな状況にあっても善くあろうとする態度を肯定する思想は、今後の人生においても自分を励ましてくれると思っている。冷笑的な態度も、世の中をとらえるうえで必要になる場面は多々あるが、その先に、ポジティブというか善くあろうとし続ける態度は持ち続けるべきではないだろうか。一方で、こういう考え方は一歩間違えれば排他的・差別的思考にもつながる。しかし、一定の節度を常に自らに課すことを心がけていれば、決してすべて否定されるべきものでもないと思っている。この戯曲はちょうど実存主義の大家サルトルが自らの思想のオリジナルとでもいうべき「嘔吐」を記したのとほぼ同時期に書かれたものだから、そういう時代だったのかもしれない。(キリスト教的にはそれぞれ根本的に違うかもしれないけど表面上は)(そもそも存在と無すら読んでないから偉そうに言えない)とにかく、結構私の心の支えになりそうな思想であった。絶版になってしまっているのが惜しい…。地道に神保町とかで探したらあるだろうか。


話を戻して、本舞台そのものについて。ただ「居る」だけのシーンも多いジョオの根幹にあるのは、責任を感じる心とそれに対し無力である自分との矛盾だと感じた。
ジョオは、個人ではなく社会全体に責任を負っている。それは序文にある、あらゆる人は君の変身<ヴァリエーション>であるということにも無関係でないと思う。彼は「弱者から奪い取った金」から成り立っている。個々人の目についた人に対する施しはしても、それはあくまで社会の一端であり一時的に自分を慰める行為にすぎないということも理解しているはず。かといって、慈善活動に身を投げうつこともできない。それは彼の不自由な脚がかせとなっているのかもしれないし、それはあくまで言い訳の象徴であるだけかもしれない。いずれにせよ、彼は搾取する側であり、操作不可能性にいら立っている。
彼の社会、あるいは理不尽に対する怒りは、同時に自分に向けられているものである。立場的には、彼もまた「そちら側」の人間であるためである。加害者意識と無力感。アンガージュマン的な態度に沿うようでもあり、同時に相対するものでもある。


そんな中で、彼が最後に銃を使おうと思ったのは、序文にある『もし君が人生の時に、人を殺すべき時が来たとすれば、殺すべし。決して悔いることなかれ。』に基づくものだろう。殺すべき時が来たら殺せとはかなり強い言葉であるが、それだけの責任を引き受けてこそ、君が人生を達成できるのである。しかし、彼は撃つことができなかった。「君が人生の時」をなしえなかった。だから、彼はあの酒場を去らなければならなかった。


ここで、観劇時にどうしても気になったことがある。基本的に、今回の台本・演出は戯曲に忠実に起こされていたが、あの部分のジョオの反応だけ、明らかに変更が加えられている。戯曲では、撃つことができずに座り込んだ後、ブリックが死んだと聞かされてもうつけになったままだった。彼はあくまで、「自分が殺すべきと判断した」対象を目の当たりにしたから、全責任を引き受けてそれを殺そうとしたのである。それがかなわなかった中、たとえ他の人がそれを達成したとしても、「自分」としては何もなせていないのであるから、極論すればブリックのその後の生死そのものは関係ない。

乱暴なたとえをしてしまうと、ヒーローに狂おしいほどあこがれる青年が、不幸な女性を救う絶好の機会があったのにもかかわらず、不可抗力で救えなかったとして、他の人が彼女を救った場合すぐにそれを喜べるだろうか?本質は彼女が救われるか、救われないかではなく、自分が自分の責任においてそれを達成できたかにあるのではないだろうか?
これに対し、今回の舞台では、ブリックが死んだと聞かされた時、最初の反応は大声での「やった」であった。確かにそのあと何か魂が他にあるような様子になるが、最初の感情は「歓喜」である。これははっきりと舞台オリジナルの演出である。このシーンは、ようやく自分の責任において「君が人生」を生きられると思ったジョオが、それがかなわなかったことに打ちのめされる、本戯曲でも肝となるものだと思っていたため、強烈な違和感があった。明らかに意志を持ってセリフを付け加えたシーンであるので、どのような意図をもって変更したのか、いずれどこかで語られることに期待したい。

 

ジョオは、決してどこにも安住できないまま、「君が人生の時」を生き抜くために生き続ける宿命を負っているのだろう。

 


その他、ジョオ以外のキャラクター何人かについて。


キティにとって、ジョオは恩人であり、敬愛する人物である。しかし、彼女が彼女の人生を生きようと思った時、彼女の夢である穏やかな家庭を作ろうと思った時、一緒になしえるのは子供のような心をもった無邪気なトムである。

 

クラップ&マッカーシー。正直に言うとマックというキャラクターがとても好きだ。自分で自分の限界を知り、なお学ぶことはやめずに、自分を生かせる場所を正確に判断することができている。

クラップは偉大なる小市民という感じで、こういう人が幸せに善良に生きられる世の中が平和といえるだろう。このままだときっと、クラップはマッカーシーを殴らなければいけない。(最後のほうで警官が労働者を殴ったって言ってたのは彼らのことだと思いたくない)

「こんなに良い世の中なのに、どうしてもめごとなんか起こすんだろうなぁ。」

 

ダッドリー&エルシー。あの二人は根本的にすれ違っている。エルシーが「自分にかかわりのない」すべての不幸から目をそむけ、ダッドリーの無事のみを願って逃避を続けられるなら成就するかもしれないが、果たしてそれが可能であろうか?いやおうなしに世界中が戦争へ向かう中、逃げる先はないと思う。思い出したのは、三原順氏による漫画「Die Energie 5.2☆11.8」の一場面だ。電力会社に勤務し、原子力発電をめぐる事件に巻き込まれた主人公が、原子力事業に疲れ退職する後輩に思いをはせているときのモノローグである。

けれど…テッドはどこへ逃げるつもりなんだろう?/速やかに逃れることができるのだろうか?/原子力発電から/そして…電気を使う今の生活から…/速やかに?/どこへ?

これの原子力発電を「戦争」「死」「現実」と置き換えて思い出したりしていた。

(ここぞとばかりに宣伝ですけど上記漫画はほんと名作なんで、原発にまつわるいろんな立場の人間をサスペンス的に社会哲学的に描いている作品でおすすめです!原発推進派の立場も反対派の立場も、チェルノブイリ以前に描かれたとは思えないほどリアル。三原順傑作選’80sで読めるよ!)

 

また、エルシーを見て「ああいう女があたしらの職業にとやかく言うんだ」みたいなことを言っている娼婦がいましたが、一見正論に見えてそういう自分がレッテルを貼ってるというのは皮肉である。

もうひとつ、はじめのほうで浮気して会おうとしたローレンが全然かわいくなかったとき、嘘をついて、しかもあきらめさせるために「足の悪い気の毒な人」という大変失礼な方便まで使って逃げようとしたダッドリーと、純粋に心配してやってきたローレンとの対比もよかった。

 

なんだかどんどん泥沼になりそうなのでここまで…。とにかく言いたいのは良い舞台だったこと、この物語に引き合わせ、演じてくれた坂本さんへの感謝です。