ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

凍える 感想

パルコ・プロデュース2022「凍える」、観劇してきたので感想、思ったことのメモです。

脱線ばかりになってしまいましたが連想ゲームの備忘録として残しておきます。

 

 

・はじめに

元々罪と赦しについては強い関心を抱いてきたため、(表現的に不適当ではあるが)とても楽しく見られた。

アニータのように分析的な見方をしてしまいがちな己を振り返って、身につまされる思いがした。個人的に強い憎しみを抱くようなことも、それを感じている人と身近に関わっているようなこともない以上、このあとつらつら書くこともすべて抽象的で理念的な話になってしまう。

それでも、すべてに先だって、圧倒的に現実的で血の通った「罪」が現に存在する。それを常に念頭に置かなくてはならないと思った。

それを踏まえたうえで、改めて考えてみる。

・加害者と責任

まずは加害者側について。ラルフのような、強い精神的ストレスや外的要因によって、「普通の」倫理観を欠落させてしまった人が犯した罪にどう向き合うべきか。

そもそも「異常な」人間という観念そのものが、近代において創出されたものであるということは、フーコーによって指摘されたことだ。(「監獄の誕生」)この正常/異常のアンビバレントな感覚は、作中でも現れている。「異常」なラルフを分析するアニータは、「正常」だからこそ自分の罪、一夜の不倫の罪に自覚的である。では、脳構造的に悪意なく殺人を犯したラルフと、罪であると自覚できる中でそれでも過ちを犯したアニータとでは、どちらがより「異常」なのか?失われたものの大きさがあまりに違うとはいえ、一方が一方を断罪できる問題でもない。

そしてそれは同時に、「異常者」を「異常者」として扱うことの加害性にも繋がる。パンフレットの寄稿にもあったように、虐待された人間がすべて加害者になるわけではない。むしろ、様々なハンディキャップを抱え、より弱者の立場に押しやられることの方が多い。(特例的な「加害者」を取り上げることの危険性を強く指摘することは、このような題材を取り上げた舞台のパンフレットとして非常に重要なことだと思う。)

私たちが一方的に「安全な世界」を守ることは、その加害性と表裏一体なのである。

身体的要因、環境的要因、社会的要因…と考えていくと、いかにその線引きが難しいか、そしてどれだけそれを無視してしまっているかを知る。

 

これに対するアプローチとして、いくつか個人的に気になっているものを挙げておく。

 

ひとつは中動態という概念について。近年、國分巧一朗が再評価して取り上げたことでよく目にするようになった言葉だ。彼の著作である「中動態の世界」や、熊谷医師との共著「責任の生成」は、今回のテーマとも深くかかわっている。一般的な能動/受動の対立軸とは位相を異にする概念である。

元来、古代西洋の言語体系(たしかギリシア語系)の中には「中動態」という態が存在していた。中動態では、その述語が意味する行為や状態の場が主語にある状態であることを表現している。わかりやすい例として紹介されているのが「惚れる」という行為だ。「惚れる」は、する側が意図してする行為ではなく、かといってされる側がそうさせる行為でもない。医師とは関係なく、否応なしに発生し、する側=主語側のなかに生じる状態である。これが中動態だ。

しかし、これが能動/受動という対立軸に置き換えられることで、すべての行為が「意図的に」あるいは「意志のもとに」行われるとされ、責任概念の生成につながったと、ざっと言えばそういう話だ。(多分)

今回の舞台に限らず、他の犯罪にも置き換えると、加害者の身体的特性(脳の特性を含む)によって引き起こされた犯罪は、本当に「責任」を伴うものなのか?現れているのは現象ではないだろうか。

 

一方で、同じくらい自分に引き付けて考えているのが「灰色の領域」という概念である。これはナチスドイツの強制収容所から生還した、ユダヤ系イタリア人化学者・作家のプリーモ・レーヴィが言及したものだ。収容されたユダヤ人は完全なる被害者だ。レーヴィもそれは自覚し、眼をそらそうとするドイツ人に対しては厳しい態度で臨んでいる。しかし一方で、自らの加害者性も取り上げているのである。

曰く、他のユダヤ人を出し抜いてうまく食料を確保したり、外部に協力者を作ったり、化学者として強制労働を免除される機会があったりすることによって生き抜くことができた。「狡く」立ち回れなかった善人はみな死んでしまったのだという。

 

いわゆるサバイバーズ・ギルトといわれる感情に近い。構造的に強いられた「加害」だが、それを自らの加害として引き受けている。被害者性と加害者性を同時に持つ、非常に精神力を消耗する状態だ。これはラルフにもいえる。被害者であることと加害者であることは両立する。両立どころか、互いを補完しあっていることもある。

そして私たちにとっても他人事ではない。広い意味で私たちに拡大できるものではないだろうか。

 

ある程度関連することとして、最近刊行された「犠牲者意識ナショナリズム」という本がとても興味深かったのでおすすめ。

 

 

ラルフは被害者だ。あんな環境でなければ、誰かに救われていれば、「こんにちは」に対し正面から向き合ってくれる人がいれば、おそらくこんなことにはならなかった。しかし一方で、同じような虐待サバイバーにも、他人への思いやりを忘れずに生きている人もたくさんいる。そのラインが脳構造が傷ついたか否かという物理的なものだけに還元されるのか。

それでもやはり私は、ラルフもまた救われるべきだと思っている。

(そういえば「あなたの知らない脳」という本も、犯罪と脳と責任について考えるうえで有用だ。)

 

 

・被害者と赦し

とはいえ、ラルフにどんな事情があろうと、ローナとその遺族が絶対的な被害者である。

与えられる必要のなかった欠損を抱えて生きていくには、せめて、自らの心を解放してやることしか出来ない。そのために取れる手段は少ない。復讐、忘却、そして赦しだ。

後述する「アーミッシュの赦し」でも触れられているが、赦しには三つの段階を見ることができる。復讐権を放棄する「赦し」、加害者が罰から解放される「赦免」、被害者と加害者の関係を修復・昇華する「和解」だ。理想論だけでいえば、真の救済は和解であるが、簡単なことではない。なら、必要のない喪失を与えられてしまった被害者遺族の心を守ることがもっとも重要なことであり、第一段階の「赦し」を目指すことが道理だろう。つまり、ラルフのための赦しではなく、ナンシー自身を解放するための赦しだ。

デリダ的な「赦し得ないものを赦す」ことが赦しであるなら、あの場で起こったことは赦しではない。ローナの身に起きたことは「赦してしまうなんてあまりに酷すぎる」ことである。

だから、ナンシーが救われるために、ラルフと面会したことも、ローナが(ラルフとは違って)愛された一人の人間であったことを突きつけたことも、私には悪いとは思えない。例えもっと良い面会方法があったとしても、例えそれをきっかけにラルフが死んだとしても(ラルフは精神的にも肉体的にも深く傷ついた人間であり、あの場で母親を仮託したナンシーに受容してもらうこともできなかったのは大きな痛みだ)、私はそれは復讐ではないと思う。すべてナンシーの為の行動だ。

それでも、ラストシーンを見ても、ナンシーが吹っ切れて幸せになれたとも思えない。それが本当に悲しい。

 

赦しといえば、キリスト教を想起せざるをえない。「主の祈り」にも、交換条件的な神との契約関係にもとづく赦しが見受けられるし(「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」)カトリックサクラメントとしても告解があるように、キリスト教の教えの骨子には赦し行為がある。舞台装置が十字になっているのも、ラルフが最後にそのてっぺんで自死したのも、天使のタトゥーを入れているのも、イエスをオマージュさせるものだろう。

キリスト教における赦しと犯罪の典型的な一例として、アーミッシュの事件を連想した。

アメリカの保守的なキリスト教アーミッシュが、そのコミュニティ内で学校の立てこもり・児童殺害事件が発生した際、直後に犯人への赦しを表明し、議論を呼んだことがある。いくつか文献を読んだ限りでは、このアーミッシュの赦し行為はやはり、あくまで犯人に向かうものというより、神との契約の中でなすべきものであるという価値観に基づいているように見受けられた。しかし、そのある意味強制力を持つ赦しの行為のおかげで、犯人の家族を含めたコミュニティ全体で苦しみを共有し、癒しを見出そうとする取り組みができたともいえる。これはある意味、修復的司法の手法ともいえる。

 

修復的司法(修復的正義)とは、被害者がコントロールできる場において、被害者・加害者・地域社会が話し合い、起こってしまった悪事を踏まえ、未来志向で協同していこうとする手法だ。(私はルワンダ紛争について調べているときに知った。)繊細に舵取りをしないと新たな問題を招きかねない取り組みではあるものの、従来の報復型司法とは別の、真の意味での被害者救済・再発防止に繋がるあり方として有用な手段だと思っている。

 

改めて書くと、刑法的な罪に問えるかどうかという次元での「許し」と、被害者遺族感情としての「赦し」は別物である。アニータが繰り広げている身体的・環境的な要因による脳構造に起因する犯罪についての問題は、あくまで前者に関係するものであり、ナンシーが苦しんでいるのは後者である。刑法がどれほど変わろうが、またそれに付随して価値観がどのように変わろうが、感情として赦すことができるかどうか、が解決されることはないだろう。

 

そんな中で、舞台の中で、演じられたキャラクターと同等に気を引いたのはイングリッドである。妹をひいきする母親、そして自分の行動がきっかけの一つとなっていなくなってしまった妹。グレても向き合ってくれない両親。もっとも辛い立場にいたのはイングリッドだ。しかしそこから、自らの足で立ち直り、母親を救済しさえする。本当の意味で、母親への「赦し」を実践できているのはイングリッドではないだろうか、と感じられたのだ。そんなイングリッドが変わるきっかけのひとつが、愛と赦しの宗教であるキリスト教ではなく、仏教に触れたことであるのも面白い。

どの宗教についても当事者ではないので、部分的な知識による決めつけに拠ってしまうが、仏教、特にチベット仏教は世俗化した日本仏教と比較しても、原初仏教に近い、自己認識・宇宙認識の実践を主としているというイメージがある。制度化され、契約関係に基づいているキリスト教アブラハムの宗教)とはまったく違うアプローチだ。特にラルフのような、それこそ責任の所在を問うにあたって一層の難しさがある加害者に対する赦しを考えるときは、結局は自己の中でどのように消化していくかが問題になってしまうのだろうか。

傲慢な理想主義者である私としては、やはり冒頭に書いた「和解」を目指すべきではないか、と思わざるをえないところもある。

 

・その他諸々

最後に、「赦し」「罪」といったテーマから外れて考えたことをいくつか。

大前提として、ラルフが虐待を受けなければ、あるいはそれを救い出し支えてくれるものがあれば、こんなことにはならなかった。虐待をする親の元に生まれるのは、全くの不運だ。本人にはどうしようもないところで、自分の人生、それに関わる無数の人生を狂わせることになる。

「実力も運のうち」が売れたり、成功は能力ではなく運によるものであることを証明する研究がイグノーベル賞を取ったりと、現在のネオリベ的自己責任論にノーを突きつける向きも活発になってきた。私たち一人一人の考え方を変えていかなければならない岐路に立っているだろう。

 

ラルフが「良心の呵責」を知ったような描写には少し疑問があった。脳構造的に倫理性を持てないはずなのになぜ精神的な痛みを覚えるのか?それは「奇跡」のような不確定要素を持ち出すもので、主題からそれるのではないかと思った。

しかしよくよく考えて、前々から思っていた「サイコパスと呼ばれる人が何故わざわざ猟奇殺人を犯すのか」というところに紐付けると少し理解できた気がした。

ラルフは構造的に共感性が著しく低い人間だが、コミュニケーションを取ることは求めている。「こんにちは」という印象的なセリフが象徴的だ。他害的な犯罪を犯すいわゆるサイコパスな人間は、他者を求めるという共感性の欠片が残っているタイプなのではないだろうか。本当に倫理観の欠片もないなら、わざわざ他者の反応を欲して犯罪を犯すなんてリスキーなことはしないだろう。(そういう人は、他人を意に介さず自分の利益を追求するタイプの経営者等になるのでは?)

 

最後に、ナンシーに対し、少し違和感を覚えたことについて。ローナの生還を信じ切る裏には、目をそらそうとしていたことがあったのではないだろうか。

小屋を通った時に気づくことができていれば、という後悔はあったが、あの時祖母のところにやらなければ、という後悔は(覚えている限りは)なかった。だが普通、一番に考えるのは、「あの時送り出さなければ」という後悔ではないだろうか。

そこに、ナンシーが無意識に退けている罪の意識があると感じられた。あの時、夫への不信感、イングリッドとローナの差別的な扱いの結果として、ローナを送り出していた。「あの小屋に気づけていれば」というのは、確かに後悔ではあるけれど、普通不可能なこと、仕方のないことである。一方で、ローナを一人で送り出したことは、小屋に気づくことよりずっと避けられた事態であった。しかしそれに直面すると、自らの本当の意味での過失に気づくことになってしまう。(むろん、そもそもラルフが犯罪を犯さなければ良かっただけの話であるし、ナンシーに事件の非は一切ない)

しかし、ナンシーの中に少なからずそのような気持ちがあったからこそ、ローナ行方不明後は、破綻していたはずの夫と接近し、逆にイングリッドのことは突き放したのではないだろうか。

 

・いちファンとしての感想

坂本さんのストレートプレイやドラマはいくつも見てきたが、一番好きな演技だった。(好きというと語弊があるけれど…)

醸し出される「どこか違う」雰囲気、理性と狂気、恐ろしさと哀れさ…。多重的な人間性が、その人生を生きてきた人として感じられた。本来の坂本さんはとてもまっとうな人で、それは無意識の所作にも現れていると思っているが、だからこそラルフの欠如が際立っていた。

坂本さん自身も大きな挑戦と言っていたし、ものすごく精神力を使う舞台だと思うが、本当に坂本さんで見られてよかった。というか君が人生にしてもOsloにしても、ストレートプレイのチョイスがストライクすぎるんだ…。ノーマンズランドも見たかった。

 

アイドルともミュージカル俳優とも違う、舞台俳優として、大きな意味を持つ舞台になったのではないかな、と思います。ますますファンになりました。