パレスチナ/イスラエル問題について(第二次世界大戦後編)
この記事では、主に第二次世界大戦後を中心に、パレスチナ/イスラエル問題の経緯と現状を説明します。
それぞれの歴史を詳しく知りたい方は下の記事も合わせてご参照ください。
それではさっそく行きます!
基本情報
前回の記事で説明したもののうち、特に重要なものだけ超簡単に記載しておきます。
ユダヤ人
イスラエルの多くを占める人。歴史的にキリスト教徒による迫害を受けてきた。(ホロコースト等が有名。)
「迫害や差別から逃れるために、ユダヤ人によるユダヤ教国家をつくろう」という運動を「シオニズム」といい、イスラエル建国の大きな動機となっている。
アラブ人
もともと中東に広く住んでいて、今のイスラエルやパレスチナがある地域でもずっと生活していた人。今のパレスチナ人はほぼアラブ人に含まれる。
簡単な状況
今のイスラエルやパレスチナがある地域は、長年イスラム国家により統治されてきた。
しかし、イギリスが、ユダヤ人・アラブ人どちらにも「パレスチナ地域にユダヤ人国家(アラブ人国家)作っていいから、第一次世界大戦の間は協力してね」と約束した。しかし戦後はそれを反故にし、イギリス自身が統治していた。
それでは、第二次世界大戦後、現在に至るまで見てみましょう。
歴史(第二次世界大戦後から)
ユダヤ人のパレスチナへの流入
迫害が続き、シオニズムが高まる中で、徐々にユダヤ人によるパレスチナへの移住も行われていました。
当初は、アラブ人が住む土地をユダヤ資本の下に買い上げ、そこにユダヤ人が居住するというかたちで進んでいました。
しかしその後、下に挙げたような契機毎に一気にユダヤ人の流入が加速し、事態が変わってきます。
・ロシアにおけるユダヤ人迫害行為(ポグロム)から逃れるため、ロシア系ユダヤ人の大規模な流入。
当初こそ、アラブ人とユダヤ人は共存していましたが、ユダヤ人による閉鎖的な共同体(キブツ)が拡大するにつれ、徐々に衝突が発生するようになりました。
イスラエル建国宣言
イギリスはもともと、イスラム圏に対するキリスト教圏の最前線(アラブ地域にありながら、「ヨーロッパの飛び地」としての機能)として、パレスチナの統治を重視していました。しかし、アラブ人・ユダヤ人双方の対立や反乱に手を焼き、1947年、これ以上の統治は困難と判断し委任統治を終了することにしました。
委任統治終了後は、ユダヤ人国家とアラブ人国家が成立することになりました。
パレスチナを「神に与えられた土地」とみなして特別視するユダヤ人のシオニズムと、「ヨーロッパの飛び地」としての機能を継続したい&ヨーロッパ地域内に建国されるのは都合が悪いというヨーロッパ各国の思惑が合わさり、パレスチナの地での建国が決まりました。
当然、そこにもともと居住していたアラブ人からは反対の声があがりました。アラブ人の土地として暮らしていく中でユダヤ人も受け入れていくならともかく、いきなりユダヤ教国家が建国するとなったら話は違います。
しかし、最終的に、国連によるパレスチナ分割案(パレスチナをユダヤ人とアラブ人それぞれの国に分ける案)が採択されました。
この分割案は、ユダヤ人に有利なものでした。当時、この地域の人口の三割しかいないユダヤ人に、56%の土地が与えられることになったのです。
アラブ諸国は反対しましたが、アメリカとシオニスト団体の買収と圧力により、多くの国が賛成票を投じました。(ちなみに、当のイギリスは棄権しています。)
そして、1948年、イギリスの委任統治が終了するその日に、アラブの承認を得ないまま、イスラエルは建国宣言を行いました。
中東戦争
不平等な分割案を基にしたイスラエル建国を不服としたアラブ諸国が侵攻し、第一次中東戦争が勃発しました。
これがパレスチナ難民の始まりと言われています。イスラエルにとっての建国記念日は、パレスチナ人にとっての大破局(ナクバ)です。詳しくは次の項目で記載します。
一般的には、このアラブ側からの侵攻により、武力衝突が始まったとされていますが、実際には、イスラエル建国宣言以前から、パレスチナは内紛状態でした。分割案に不満を持っていたアラブ人だけでなく、エルサレムが国際統治とされたことに対してイスラエル側も不満を持っていました。(エルサレムはユダヤ教にとってもイスラム教にとっても聖地。詳しくは前の記事を参照。)ユダヤ人居住地域からエルサレムへの進路上にあるパレスチナ人の村を侵攻し、虐殺を行なったりしました。(デイル・ヤースィーン村虐殺事件)
第一次中東戦争では、当初こそアラブ諸国が優勢でした。しかし、これらの国々同士はそれぞれ対立しており、一枚岩ではありませんでした。結果としてイスラエルが勝利し、分割案よりさらに多くの土地、地域全体の75%をイスラエルが支配することになりました。この時の停戦ラインを「グリーンライン」といい、現在の二国間解決の際の指標とされることが多いです。
パレスチナ難民の発生
この内紛や戦争に前後して発生したのが、いわゆるパレスチナ難民です。戦火から逃れようとした人たちだけでなく、一時的な避難のつもりで土地を離れた人も多かったのですが、その後ずっと、イスラエル圏内への帰還が叶わない状態となっています。70~80万もの人が、土地を追われることになりました。彼らは、現在のガザ地区、ヨルダン川西岸地区、周辺諸国へと追いやられました。今では、全世界の難民のうち5人に1人がパレスチナ難民であると言われています。
ここで、パレスチナ人が居住している主な地域それぞれの特徴と、現在の状況を見てみます。
ガザ地区
地中海に面し、エジプトと接した小さな地域です。ここは世界で一番人口密度が高い地域と呼ばれています。現在では、強硬派のハマース(後述)の拠点とされているため、断続的にイスラエル軍による武力行使が行われています。(当然、民間人の被害も甚大)
また、イスラエルによる締め付けが最も厳しい地域でもあるため、満足な経済活動ができないだけでなく、各国による支援物資もイスラエルによって制限され、苦しい生活を強いられています。
ヨルダン川西岸地区
内陸に位置する、比較的広い地域です。ここでは、イスラエルによる分離壁の建設が進められています。この分離壁は、グリーンラインよりも、パレスチナにとって狭く、イスラエルにとって広いラインで建設されています。また、本来ならパレスチナ側にあるはずの水源等の資源も、イスラエル側に取り込むように建設されています。
イスラエル人による入植(後述)も盛んな地域となっています。
国外の難民
レバノンを始め、周辺諸国に難民として居住しているパレスチナ人も多く存在します。難民という立場であるため、それぞれの国での行動や経済活動は制限され、国連による支援も年々減少しています。(もっと細かく見れば、その居住地域や難民となった時期によって、様々な立場に置かれています。)
周辺諸国の政治状況の影響ももろに受けてしまうため、難民キャンプはたびたび戦場となり、数万規模の犠牲者が発生しています。
ガザ地区、ヨルダン川西岸地区の住民は、苦しいながらもまだ「パレスチナの領地」で生活していると言え、「パレスチナ/イスラエル問題」において主体として取り上げられますが、これら難民はさらに立場が複雑なため、苦しい現状に置かれていると言えます。
イスラエル国内
もともとは、地域全体にアラブ人が居住していたため、難民となることを逃れ、イスラエル国内に居住し続けるパレスチナ人もいます。このようなイスラエル国内のムスリムとしてのパレスチナ人やキリスト教徒は、イスラエル人口の二割にも上ります。
しかし、二級国民と位置づけられており、世界中からイスラエルに移住してきたユダヤ人よりも下の立場に置かれ、制度的にも差別的な扱いを受けています。
第二~第四中東戦争
四度にわたる中東戦争により、パレスチナ人はどんどん苦しい状況に置かれました。イスラエルの軍政下におかれ、家屋や財を没収されてユダヤ人入植者に割り当てられたり、移動が厳しく制限されたりしました。また、さらに難民も増えました。
特に、第三次中東戦争では、イスラエルはゴラン高原等の広範囲を支配することになりました。難民も多数発生し、パレスチナ人のものと定められている「ガザ地区」「ヨルダン川西岸地区」「東エルサレム」もイスラエルに占領されました。これらの地域に対する実効的な支配は今日まで続いています。
このころには、イスラエルはアメリカとさらに接近し、その後ろ盾をもとに圧倒的に優勢となり、逆にパレスチナの後ろ盾となっていたアラブ諸国は徐々に手を引き始めました。
アメリカ国内でユダヤ・ロビー活動が大きな影響力を持っているだけでなく、イスラエルが中東における軍事大国としての存在感を確立していったことが、アメリカのイスラエル支持に拍車をかけました。
パレスチナ解放機構(PLO)の成立
そのような中で、パレスチナ人の意思を示す組織として、パレスチナ解放機構(以下PLO)が結成されました。「パレスチナ人の民族自決権(自分たちのことを自分で決める権利」や「各地に離散させられているパレスチナ人が、パレスチナの地に帰還する権利」等を求めていました。
いくつかの組織から成っていますが、中心となったのは、反イスラエル闘争でパレスチナ人の支持を集めていたファタハでした。ファタハは、イスラエルの武力行使に対抗する武装集団として、アラファトとジハードにより組織されました。パレスチナ人からは、英雄的な組織として支持を集めていました。しかしその後、アラファトがPLOの議長となり、イスラエルとの衝突によりその拠点を何度か移してからは、強硬的な姿勢が緩和されました。
1974年には、パレスチナ人を代表する組織として国際的に認識されるようになりました。
インティファーダ
1987年から、パレスチナ人によるインティファーダが起きました(第一次インティファーダ)。イスラエル軍に対し、パレスチナ民衆が投石や納税拒否等により抗議を行うことを言い、イスラエルはこれに武力で応じました。PLOは、インティファーダをサポートしました。
「イスラエル軍の戦車に対し、投石を行うパレスチナ人の少年」という構図は、「差別されてきたユダヤ人の国家であるイスラエルは弱者である」「パレスチナ/イスラエル問題は当事者である両者の間で解決されるべき」という空気になっていた世界に対しショックを与えました。
第一次インティファーダによるパレスチナ人の死者は、子供300人を含む1200人を越え、負傷者は13万人に上るとされています。
この流れに乗り、1988年、PLOはパレスチナ独立宣言を行いました。イスラエルと共存し、ガザ地区・ヨルダン川西岸地区での独立国家建設を宣言するものでした。
湾岸戦争
しかし、その後の湾岸戦争で、世界から非難を浴びていたイランに同調したため、再び国際世論の支持を失ってしまいました。
アメリカへの反発からイスラエルへミサイル攻撃を行ったイランのフセイン大統領は、パレスチナ人にとって歓迎すべき存在でした。しかし、湾岸戦争のきっかけとなったイランのクウェート侵攻は国際的に容認し得ない行為だったため、そんなイランに同調するパレスチナは各国からの支援が打ち切られることになってしまったのです。
結果的に、PLOは財政難に苦しむことになります。
オスロ合意
1991年、マドリードで中東和平会議が行われました。アメリカ主導のもと、イスラエルとパレスチナの代表が同じテーブルにつきました。しかし、イスラエルはパレスチナ代表としてPLOが参加することを拒み、うまくいきませんでした。
拡大するインティファーダと、アメリカ主導の交渉の失敗を受け、秘密裏にノルウェーが動きました。ノルウェーは、ナチスドイツによる迫害という共通項の下、親イスラエルの国でした。とはいえ、中東問題には実際的に関与していなかったため、比較的中立の立場で関わることができました。
当時、イスラエル・パレスチナ双方は、互いの存在を認めていなかったため、表立った接触は不可能でした。そこで、ノルウェーの地で秘密裏に交渉が進められました。
そして、1993年、オスロ合意(正式名称:暫定自治政府原則の宣言)として結実することになったのです。当時のイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で取り交わされました。
アラファト議長は、前述の通りPLO第一党のファタハの人です。ラビン首相は、中東戦争の指揮を執ったりしていた元軍人でしたが、比較的和平交渉に積極的でした。しかし彼はその後、パレスチナに対する態度に不満を持つイスラエルの右派青年により暗殺されます。
オスロ合意の要点として、以下の二点が挙げられます。
・イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として、互いを承認すること。
・イスラエル軍が占領しているガザ地区、ヨルダン川西岸地区から段階的に撤退し、5年にわたる自治を認めること。その後のことについては5年のうちに定める。
はじめて互いを承認し、和平に向けた意思確認を行ったという点で、画期的な出来事となりました。
これまで、イスラエルはPLOの存在を認めていなかったため、交渉する相手はいない、パレスチナ人を主体とするような問題もないという立場でした。またPLO側も、イスラエルを国として認めていませんでした。そのような状態から、初めて、これからに向けて同じテーブルで話をする準備が整ったのです。
しかし、片や国として成立し50年ほどが経ったイスラエル、片や「ゲリラ」と呼ばれた国国を持たないパレスチナ人。この両者が同じテーブルに座った時点で、真に平等な話し合いは難しく、不公平は始まっていました。
ともかく、オスロ合意に基づき、PLOの流れを汲むパレスチナ暫定自治政府が成立し、アラファトが初代元首となりました。
オスロ合意の問題点
現在のパレスチナの状況からわかるように、結局、このオスロプロセスは失敗に終わってしまいました。ここからは、その主な要因と、そこから繋がる現在のパレスチナの状況について記載します。
◆要因
・イスラエル人による入植を禁じなかった。
・パレスチナの民族自決権や国家建設が棚上げされた。(自治以上のものを認めなかった)
・ガザ、ヨルダン川西岸地区以外のパレスチナ難民やイスラエル国内のアラブ人の存在を背景化してしまった。
・パレスチナ内部の分裂を招いた。
イスラエル人による入植を禁じなかった。
イスラエルは、パレスチナに割り当てられた土地にもかかわらず、そこの家屋を破壊したりしてパレスチナ人を追い出し、そこに居住する入植活動を繰り返していました。イスラエル軍による統治は段階的に縮小するとしたものの、入植行為を禁止する条項は盛り込まれなかったため、入植行為は一貫して続きました。
入植行為を読み解くため、理解しておきたいシオニズム
パレスチナ自治区に対する入植行為は、明確に国際法違反です。にもかかわらず、依然としてイスラエルが入植をやめない思想的な理由が、やはりシオニズムにあります。ここでは、シオニズムについてもう少し詳しく、その二大潮流を見てみます。
・ 政治的シオニズム
政治的シオニズムとは、政治的な手段を以て、パレスチナの地にユダヤ国家としてのイスラエルを建設することを掲げており、それに伴うパレスチナへの入植も容認する立場です。
政治的シオニズムの中にも、右派と左派があります。
右派は、パレスチナの地からパレスチナ人を全て排除し(武力行使を厭わない)、純粋なユダヤ国家としてのイスラエルを目指す立場。イスラエル二大政党のうちのリクード党が掲げており、現在のネタニエフ首相もこの立場です。
左派は、武力行使を極力排し、平和的解決を目指している立場です。しかし同時に、現在入植活動により占領している地域はイスラエルのものである、としています。この入植地はもちろん、国際法上ではパレスチナのものです。
二大政党のもう一方である労働党が掲げており、オスロ合意を行った時のラビン首相はこちらです。
いずれにしても、手段が暴力的かそうじゃないかの違いだけで、現在のイスラエル二大政党どちらも、イスラエルのための入植は容認していることになります。
イスラエル建国を目指した20世紀初頭のシオニストによるスローガンは「土地なき民に、民なき土地を」でした。土地なき民とはもちろんユダヤ人のことです。民なき土地を、はパレスチナの地を指す言葉ですが、ここまで見てきたように、パレスチナには長い間土着のアラブ人が生活していたため、民なき土地とは言えません。ここに、シオニストによるアラブ人の無視・軽視が見られ、現在の入植を正当化する価値観を見ることもできます。
文化的シオニズム
対して、文化的シオニズムは、必ずしも物理的なパレスチナの地への入植を必要としていません。世界でディアスポラ状態にあるユダヤ文化の精神的な支柱としてパレスチナの地を据えている、言葉の通り文化的な意味合いでのシオニズムとなります。
中には、長い間にわたってディアスポラの状態にあったこと、他の文化と同化せずに客観的な立場をとることができたことこそがユダヤ文化の特徴であり、イスラエルという固定化した国家建設はそのユダヤ文化の破壊である、という立場の人もいます。
超正統派(背高帽子に長いひげの人)の人たちにとっては、暴力で手に入れた土地は国として認められないという立場の人もいます。
入植行為の現在
イスラエルによる入植行為は、2020年現在でも行われています。オスロ合意後、入植地は4倍に拡大したと言われています。中には数万人規模で居住している地区もあり、インフラや教育機関も整備された完全な町として機能しています。
入植行為による問題点は、単に土地を奪うという点だけではありません。パレスチナ自治区では経済活動も制限されているため、いっそうパレスチナの自立が難しくなっています。
かつてはパレスチナ人も入植地で働いていましたが、2000年代の初めまでのことでした。それ以降は労働力としても(極少数の例外を除いて)パレスチナ人を必要としない政策に変わっています。
なお、まさに現在、例をみないほどイスラエルに肩入れしてきたトランプ大統領の敗北を受け、「駆け込み入植」現象が起きているとの報道もあります。(トランプ大統領は、長く国際社会から非難されている入植活動を、アメリカ大統領として初めて「正当性のある行為だ」と認めています。)
また、これに関連する事項として、分断壁があります。ヨルダン川西岸地区では、自治区を取り囲むように、イスラエルによる分断壁の建設が行われています。しかも、実際の自治区のラインより(パレスチナにとって)狭く、逆に水源等をイスラエル側に取り込むかたちとなっています。さらに、この壁を乗り越えてまで大規模な入植地を建設し続けています。
日本でも話題に上るようになったバンクシーは、分断壁や入植地で積極的にストリートアートの制作を行ったりしています。(「世界一眺めの悪いホテル」等が有名。)
では、オスロ合意の問題点に戻ります。
パレスチナの民族自決権や国家建設が棚上げされた。(自治以上のものを認めなかった)
オスロ合意が持っている問題点の二つ目は、問題の先送りです。たしかに、それまで認められていなかったパレスチナの暫定自治政府が成立することになったのは大きな成果でした。しかし、オスロ合意の中で認められた自治は5年間、それ以降については定められていません。
5年経ったのちの最終交渉では、パレスチナ人の帰還等、問題を解決する上での最重要事項について話し合われましたが、決裂してしまいました。
ガザ、ヨルダン川西岸地区以外のパレスチナ難民やイスラエル国内のアラブ人の存在を背景化してしまった。
オスロ合意の経緯から、パレスチナ暫定自治政府は、PLOとほぼ重複、同義となっています。しかし、ガザ地区・ヨルダン川西岸地区を代表してはいるものの、それ以外の難民等とは直接関わりがありません。「パレスチナ人」総体を代表できるような選挙制度になっていないにもかかわらず、暫定自治政府がパレスチナ人の代表と扱われていることにより、難民の人たち等が問題の範囲外に置かれてしまっています。
パレスチナ内部の分裂を招いた。
オスロ合意に向けての交渉は秘密裏に行われたため、当然、PLO以外のパレスチナ勢力に不信感を抱かせるきっかけとなりました。
現在パレスチナにおいて勢力を拡大している対イスラエル強硬派ハマースも、暫定自治政府の中心となっていたファタハと対立しています。ハマースは軍事組織であるだけでなく、慈善部門にも力を入れているため、一定の支持を得ているのです。
しかし、ハマースによりガザ地区に作られた学校や病院は、その地下に軍事拠点があるとしてイスラエルによる攻撃の対象となっています。ガザ地区は世界で一番人口密度が高い地域と言われるほどの狭さなので、軍事拠点と一般住民の生活圏が重複せざるを得ない状況にあるとも言えます。イスラエルによるガザ地区攻撃により、子どもを含むパレスチナ民間人は1000人単位で亡くなっています。
現在の自治政府は、ヨルダン川西岸地区を拠点にするファタハが大統領職を、ガザ地区を拠点にするハマースが首相職を有し、事実上分裂状態にあります。
イスラエル/パレスチナ問題の現在
以上記載したように、オスロ合意に基づく和平交渉は、残念ながらあまり成果を得ませんでした。
その失敗が明白なりつつあった2000年9月、イスラエルのシャロンが、エルサレムにあるイスラム教の聖地に入りました。聖地であり、不正に実効支配している場所でもあるため、明らかにパレスチナ人への挑発行為でした。これを契機に第二次インティファーダが始まり、両者は決裂することになります。
またこの第二次インティファーダにより、パレスチナ内部では武闘派のハマースが力をつけ、前述した分裂の一因となりました。
イスラムとテロについて
ちょうど第二次インティファーダから1年経ったころ、9.11が発生したことでテロとの戦いが表面化し、しかもテロ=イスラム、という図式が出来上がりました。そうした流れを利用して、イスラエルは自分たちを非難する人たちを「反ユダヤ主義」と呼び、パレスチナ人の抗議行動・報復行動を「テロ」と呼ぶようになりました。
世界中の人がホロコーストを知っているので、「それは反ユダヤ主義だ」といわれてしまうと、なかなか批判できません。
そしてイスラエルは自身による攻撃を全て、攻撃ではなく報復と呼びます。そういったレッテル貼りを使って周囲からの言論を封じ込め、正当化しています。
「テロ行為」とされるものを安易にイスラム教徒と結びつけるのではなく、それを封じ込めている側の行為にも果たして正当性があるのか、そもそもそれはテロと呼ばれる行為なのか。そういった問い直しも必要だと思います。
現在進行形の状況
ここまで見ればわかるように、パレスチナ/イスラエル問題は単なる宗教問題ではなく、むしろ政治的要因・経済的要因が大きいと言えることがわかると思います。そして、この問題は今もなお続いています。
わかりやすいところで言えば、トランプ大統領によるイスラエル国内のアメリカ大使館のエルサレムへの移転が挙げられます。ここまで読んだ人はピンとくるかもしれませんが、エルサレムは、本来国際統治とされるべきところであるにも関わらず、イスラエルが実効支配しています。大使館は国の首都に置かれるものなので、この支配が不当だと見なす世界各国は、国際的に首都と認められているテレアビブに大使館をおいています。しかし、トランプ大統領がアメリカ大使館をエルサレムに置くとしたということは、イスラエルによる不当占拠をアメリカが容認しているということと同義になります。(トランプ大統領のブレーンの娘婿はユダヤ人であり、娘自身もユダヤ教に改宗していることは無関係ではないでしょう。)
この辺りの力関係も、今回のトランプ大統領の敗北により変わってくるでしょう。まさに現在進行形の問題なのです。
日本にとってもまた、無関係ではありません。第二次世界大戦後の日本は、(中東関係では一部独自路線もあるものの)基本的にアメリカに同調する姿勢をとってきました。そのため、世界137の国連加盟国がパレスチナを国として承認していますが、日本は国として認めていません。
また、2019年にはイスラエルとの武器共同開発に向け覚書を交わしています。イスラエルは世界屈指の武器開発国ですが、この最新鋭の武器はもちろん、ガザ地区等に使用されています。
最後に
以上、ブログとしてはかなり長くなりましたが、いったんここで終わりにします。
どのような歴史があり、その中でオスロ合意はどのような位置づけで、そしてパレスチナ/イスラエルの現状がどうなっているか、少しでも知っていただけたら嬉しいです。これらの背景を知ったうえで観劇することで、きっと舞台の深みも増すと思います。
私自身、この問題に少なからず関心を持っていたものの、今回ブログを書くにあたっていろいろ調べたことで、とても勉強になりました。
なによりもまず、この問題は現在も続いているものなので、「舞台で描かれたおはなし」で終わってしまってはだめだなぁと思います。
そして、現在の新型コロナウイルスの拡大とそれに伴う緊急事態宣言の中で、坂本さんをはじめとした関係者の方々は、舞台を開演するということに対して通常以上に奔走されていると思います。
私たちは待つことしかできませんが、文化を止めることなく、無事何事もなく千穐楽を迎えられたらと祈るばかりです。
参考文献
「まんが パレスチナ問題」山井教雄著 2005年1月(講談社現代新書)
「続 まんが パレスチナ問題」山井教雄著 2015年8月(講談社現代新書)
(↑この2冊はイラスト中心でさっと読めるので、入門としておすすめです)
「世界史の中のパレスチナ問題」臼杵陽著 2013年1月(講談社現代新書)
(↑幅広い側面からより詳しく知るのにおすすめです)
「パレスチナ/イスラエル論」早尾貴紀著 2020年3月(有志舎)
「ユダヤとイスラエルのあいだ 民族/国民のアポリア」早尾貴紀著 2000年3月(青土社)
「パレスチナとは何か」エドワード・W・サイード著 2005年8月(岩波現代文庫)
「イスラエル 兵役拒否者からの手紙」ペレツ・キドロン著 2003年1月(日本放送出版協会)
「オスロ合意から20年 パレスチナ/イスラエルの変容と課題」今野泰三、鶴見太郎、武田祥英編 NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点中東パレスチナ研究班 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/tokyo-ias/nihu/publications/mers09/mers09_fulltext.pdf
(↑オスロ合意の問題点についての論文集です。公開されています)
「ハイファに戻って/太陽の男たち」ガッサーン・カナファーニー著 1978年5月(河出書房新社)
(↑第一次中東戦争の際にパレスチナを追われた著者による小説です。より生々しく理解することができると思います。なお、この著者は36歳の時に姪と共に爆殺されています)
参考サイト
世界史の窓 各関連ページ