ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

戸惑いの惑星、というか彼への感想

TWENTIETH TRIANGLE TOUR 戸惑いの惑星を二回観劇いたしました。

まず何よりお話が面白くて演出が面白くて、そしてそれを作り出しているトニセンやG2さんが素晴らしくて、今までの私の「好き」を軽々と更新してくれました。

私はもうおそらく行けませんが、少しでも興味があって余裕がある人なら今からでも当日券を狙ってほしいです。

さて、ここが素晴らしいとかヲタクとしての萌えどころとか書きたいことは山ほどあるけれど、以下はある登場人物の一人への偏った叫びです。

もちろんネタバレしかないので、まだ観劇されていない方はご注意ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以下ネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長谷川幸彦くんです。

 

一回目観劇後、三池や由利にはわかりやすい救いが用意されているからこそ、どうして長谷川だけがこんなに明確な救いがなく終わってしまったんだろうと悶々としていました。

けれど、二回目観劇した後、もしかしたらきちんと彼にも救いがあったのではないかと思うことができるようになりました。

 

そもそも、長谷川くんが抱えていた問題はどこにあったのか改めて考えてみます。

事実としては、彼は、127社から断られて小説家の夢破れたのち、手紙代筆業で他者の心を追体験し続けるうちに自分を見失い、ついには愛する人の代筆を行ったことでとどめを刺されてしまいました。

少しいいかえると、①度重なる否定により心を弱らせていたところに②他人の心を大量に摂取して相対的に自分を希薄化させ③さらに愛する人の心を追体験することによって、その心の中に自分が存在しないことを「自分の気持ち」として自覚してしまった というトリプルコンボが見えてきます。ここで考えたいのは、由利妹の件はあくまできっかけ、とどめであり、逆に言えば彼女のことさえ解決すればハッピーエンドになるということでもないのではないかということです。本質的な問題は、自己の希薄さにあるといえるでしょう。それが、一番重大な人格喪失症という症状となって表れた。

人が自己を自己であると認識するには、他者による承認が不可欠です。その点でいうと、前述の①は基盤を揺らがせるに十分なものですし、また三池や由利に比べて理解者も皆無と言ってよいでしょう。ずっと由利妹のことが忘れられなかったとすると、三池のように一時でも心からお互いを愛し合える人がいたわけでもないし、由利のように家族が応援してくれたという描写もありません。

では、そんな彼は何をもって救われたといえるでしょうか。やはり、それは他人によって「君は長谷川幸彦として存在しているんだ」という承認がなされるでしょう。ユング集合的無意識とかラカンの手紙は必ず送った相手に届く云々とか、様々な形で哲学や精神分析が取り入れられていますが、そういう世界においても承認の重要性は繰り返し語られています。そして振り返ると、承認行為はきちんと舞台の中、そして外で行われていることに気づきます。

まず一つ目が、Dahliaです。これは物語がいったん区切られた後、余興のような形で披露されます。私は、はじめ舞台と現実のトニセンとの橋渡し的時間なのかなと思っていたのですが、これも物語の一部と考えると、とてもしっくりきます。

歌詞は、元来のラブソングから友情をうたったものに替え歌がされていますが、いずれもほぼ共通のサビの部分に注目してみると

それでも君がいる いつでも君がいる

信じているよ Thank you my friend

となっています。そう、それでも「君がいる」んです。seinしてるんです。*1

三池の絵(その人の未来かもしれないし、本質かもしれない)を通して自分を自覚したところで物語が終わるわけではない。ちゃんと二人の目を通して彼が存在していることを歌っているのだと思うと、この一幕は長谷川のためにあったのかな、なんて考えてしまいます。

そして二つ目は、私たち観客自身です。おそらく、見終わった人の多くが、長谷川のことを案じたり、想いを馳せたりしたでしょう。心に引っ掛かりを覚えたでしょう。あさイチのいのはらくんを見て、もうひとりの彼なのかもしれないと考えたりもするでしょう。(三池と由利がキャラクター性に基づいた名前、ミケランジェロユリゲラーであるのに対して、長谷川は現実のいのはらくんに寄せた名前であることも作為的です)(四文字+〇彦)

観客である私たちは、長谷川に確かな存在感を抱き、「幽霊のように」見てはいません。本人には届かないかもしれないけれど、「承認」しているのです。彼が自分の殻から外を見る勇気を持った時、もしかしたらそのことに気付けるかもしれないのです。

三つ目を挙げるとしたら、作中何度も三池と由利によって「お前は長谷川だよ」と定義づけられていることも、具体的な承認のかたちとなっているでしょう。

まとめると、自己存在の希薄さが問題となっている長谷川は、実は舞台構成や舞台であることそのものによって、確かに救済されているのだということができると思います。

 

そしてその先のステップとして、三池が再び筆をとり、由利が研究に戻ったように、長谷川もまた小説を書くだろうと予想できますが、それは直接的には描写されていません。

しかし、彼は自分がわからなくなりながらも、迷いの病の世迷言を書きます。フロイト的には、無意識下にある本当の欲望は夢等の意識が顕在化していない時に発露するとされています。我を忘れた状態で行ったことが「小説を書くこと」だった長谷川は、本当の欲望として小説へのベクトルを持っているのです。

もう一つ、その無意識の発露の中で描かれた描写の中で、三池が代筆なんかやめろというシーンがあります。(三池自身は、似顔絵を描いていることを長谷川は知らないはずだと言っているので、これは長谷川が生み出したものでしょう。)(もしくは外宇宙を介したパラレルワールドかもしれませんが)意識下では代筆にゆだねていても、無意識化では拒絶していることがわかります。

また、集合的無意識的な世界で三池が本当の気持ちをつづった手紙に向かい合うとき、長谷川はずっと背を向けて黙って聞いています。数々の手紙を代筆してきたけれど、やはり本当の気持ちはその人の言葉に宿るということをかみしめていたのではないでしょうか。

彼は、自分でも本当はわかっているのです。

 

ここまでくると、戸惑いの惑星そのものが、長谷川幸彦の小説という可能性もありますよね。

 

なんか長々と書いてしまいましたが、長谷川くんは確かに救われているし、きっと小説に向き合うことができるだろうということが言いたかったんです。しんどい。

 

ここでは書けませんでしたが音楽的にも涙が出るほど素晴らしかったので、本当に映像化や再演を望みます…。

尻切れトンボですがここまで…。

*1:いのはらくん、da seinって曲書いてたよね