ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

OSLO 感想

Oslo東京公演を2回、観劇してきました。少し時間が経ってしまいましたが、感想を残しておこうと思います。

 

 

舞台演出や演技について

会話劇を聞かせることに特化したシンプルな演出は、感情と同時に頭を使って観劇するべき本作にとてもマッチしていました。

場面転換もほぼ家具の移動とプロジェクションマッピング、幕の上下によって表現されていたので、見ることに集中できました。(家具の移動に演者が参加することは、ラーセンの「場を整える」ということを体現しているのでしょう。)

そして、だからこそ、唯一大きく舞台構造が変わるラストの演出は白眉ものでした。時間の距離を空間の距離に置き換え、ひとつの達成である合意の場面から一気に現在の私たちに引き戻し、ラーセンの苦悩を私たちのこころの揺れの前にさらけ出します。遠く離れた扉の向こうから差し込む光は、遠いけれども確かに存在する希望のように見えました。

演者の方々に関しても、良い意味で舞台の要素として、どの方もぴったりとハマる演技でした。情熱がありながらもキュートな面が魅力的だったラーセンが、現実に打ちのめされながらも、語りかけるように、かつ自分に言い聞かせるように独白するラストシーンの坂本さんの演技は素晴らしかったです。

(煩悩直結の感想でいえば「坂本さんやっぱりスタイルの良さが異常だな…」とか「坂本さんと福士さんの良い声の波状攻撃やばいな…」とかありますが。)

また、全体の構成として、広く言えばユダヤ教徒イスラム教徒の相容れなさを描く中で、キリスト教の象徴としての十字架から舞台が始まるのは皮肉が効いているなと思いました。

 

きわめて個人的な思い

前の記事でも書きましたが、私の身内に、パレスチナの難民を支援する活動をしている人がいます。私が生まれる前から携わっていたので、物心ついたころから、私にとってパレスチナは特別な存在になっていました。その人から考え方や活動について押し付けられたことはなかったけれど、問題について取り上げられた雑誌を読ませてもらったり、ニュースで報道されていれば自然と耳に入ったりと、一般的な日本人と比べたら、かなり関心を持っている環境だったと思います。

そんな環境の結果、単純に現地の苦しみを想うだけでなく、「遠い異国の地といえども、その気になれば様々なかたちで支援できるのに、そうしない自分に対する嫌悪感」というものが、私の精神性に染みついていると思っています。特に、社会人になって自分のお金の融通がきくようになってからは、なおさらその思いが強くなりました。少額の寄付やたまの手伝いはしていても、自分の生活かわいさから、身を削って助けよう、ということはしてきていません。ごく身近な人がそのような活動をしているのに、何もしないも同然な自分に対する嫌悪感。それは、現に抑圧する側のイスラエルや、パレスチナに限らず自分以外の諸問題に無関心な日本人に対する嫌悪にも転嫁され、そんな自分にさらに嫌悪感を抱く…という悪循環です。

個人がやれることには限りがある、なんて欺瞞です。インターネットを介していくらでも情報を得られる現代において、「遠い国の問題」なんて存在しません。知ろうとしないのも他人事だと感じるのも、自分でそう選択しているのです。

 

そんな中で、今回の舞台が決まりました。自担に仕事が決まる嬉しさと同時に、よりによって(かなり身勝手な理由で)私にとって辛い気持ちを引き起こす題材に対する戸惑いがありました。特に、作中でもあった通り、オスロ合意は失敗に終わったプロセスであり、むしろ泥沼化の一端を担ってしまったと批判されているものです。例えば、現在世界でもトップクラスに新型コロナウイルスワクチンの接種が進んでいるイスラエルですが、実効支配しているパレスチナのワクチンは限りなく少なく、その理由を「オスロ合意において医療的な対応はパレスチナの責任の下に行うと定められている」としていたりします。ただでさえ経済力のない自治区への物理的な締め付けを行いながら、あくまでパレスチナの自己責任としているわけです。

そんなオスロ合意を(言い方は悪いですが)今更取り上げるということはかなりセンシティブであり、描き方次第では強者の論理を再補強することにもなりかねません。自分の大好きな人が、自分が最も嫌悪を覚える構造に組するかもしれないと思うと、心底複雑な胸中でした。今回の舞台が決まった後、当ブログでパレスチナ/イスラエル問題についてまとめたのも、そういう気持ちをぶつける一つの方法だったかもしれません。

 

そして実際観劇を終えて、杞憂だった、というほどではありませんが、私にとって「正しい」と感じられる着地だったことに、まずは一通りの安堵を覚えました。

前述したようにオスロ合意には問題があり、今回改めて調べれば調べるほど、そればかり目についてしまいます。それでも、誰かが始めなければならなかったのです。フランス革命の時、王に代わって主権を獲得したのは白人男性でした。それが、絶え間ない努力によって女性や外国人まで拡大していきました。逆に、制定当時は世界で一番先進的だったワイマール憲法は、ナチス政権によって失効し、断絶しました。まずは始めた後に、歩み続けること。その前において個人の罪悪感は意味をなさず、かといって傲慢にもならずにできる範囲で、それでも0ではなく進み続けること。どんな主張をしようと、「理解しあえない」他人同士がそれでも生きていくためには、こうすることが唯一の解決策です。

これは、ラーセンとモナのように特別情熱があり、かつネットワークを持っている人に限りません。日本にいる私たちにも直接関わっているのです。「ノルウェーは中立国だからできた」は、翻って日本にも当てはまります。

最後の叫びは、他ならぬ私たち一人一人に向けられていると、強く感じました。

 

現在、パレスチナイスラエルには、確かに断絶があります。一方で、個人レベルでは、何とか状況を打開しようとする活動、両国人が互いに手を取り合う取り組みもまた存在します。それらに目線を向け続けること、可能なら自分も支援に回ったり、周りの人に伝えること。また、パレスチナイスラエルだけでなく、ロヒンギャウイグル等より広い対象に目を向けること。民族問題に限らず、社会の中に存在する大小の問題から目をそらさないこと。常に最善の行動を取り続けることは不可能でも、そういった態度を取り続けることは忘れてはならないな、と改めて思いました。

 

最後に、この舞台で一番心を揺さぶられたのは、実は次のセリフでした。

「ウリ・サヴィールとアフマド・クレイ、その娘たちは、まだ連絡を取っている。」

ウリ・サヴィール氏が執筆した「Peace First」という本があることを知って調べてみたところ、アブ・アラーがあとがきに寄稿していました。

このような個人レベルのつながりこそ、人を、歴史を動かすのだと思います。

取り止めもなく連想したこと

 

・エイブのキッチンストーリー

去年の暮れ、ミニシアター系でこんな映画がありました。アメリカに住むパレスチナ系の父親とイスラエル系の母親を持つ少年エイブの物語です。詳しくは公式のあらすじ等を読んでいただきたいのですが、この作品でも、それぞれの文化を背景にした二つの家族がたびたび衝突します。とても良い映画だったのですが、作中で描かれた、きちんとルーツを知ること、互いが互いを加害者と思っていても、最後は人と人とが「やりすぎたんだ」と認め合うことは、問題を良い方向へ導く最善策の一つだと思います。まずは個人の繋がりから、と考えたラーセンともつながるのではないでしょうか。

 

Reddit

以前、ガザが攻撃されているさなかのパレスチナ人とイスラエル人兵士がそれぞれRedditAMAを行ったのを見たことがあります。あまりなじみのない人のために説明すると、Redditとは英語圏の、アカウント制のネットサービスで、AMAはその中でも「Ask Me Anything」という人気のある文化です。日本でいう5ch(2ch)の「○○だけど質問ある?」みたいなやつです。オバマ大統領やビルゲイツもやったことがあるので、5chよりはアングラ感がない感じでしょうか。

まさに攻撃している側と攻撃されている側、それぞれの回答を見て印象的だったことがあります。(もちろん、それぞれあくまで一個人の言動なので、それを国や集団全体に適用するのは危険だと自戒しつつ。)

パレスチナ人青年側は、戦闘や死がもはや日常なので、ある意味割り切りというか、それでも生活をするしかないというような達観がありました。そして、パレスチナ人とイスラエル人が兄弟となれる可能性についても言及していました。一方で、イスラエル人兵士は、パレスチナ人のテロ行為により自分の大切な人が死ぬ恐怖を強く感じ、攻撃の正当性を主張していました。

Oslo作中で、「テロにおびえる被害者のようだが、圧倒的な軍事力や核兵器を持っているのはイスラエルだ」というような言及があったとき、これを思い出しました。

既に「奪われること」が恒常化している中ではそれが生活に組み込まれ、「奪われること」が日常でないものにとってはそれは恐怖であるということは、日本社会においても見受けられることだと思います。

 

元のサブレディットはこちら↓

https://www.reddit.com/r/IAmA/comments/2axmvl/iama_palestinian_citizen_living_in_gaza_ama/

https://www.reddit.com/r/IAmA/comments/2awe04/iama_idf_israeli_solider_ready_to_talk_about_my/

まとめサイトですが、和訳したものもあります↓

http://askmeanything.blog.jp/archives/1006166460.html

http://askmeanything.blog.jp/archives/1006121887.html



・歓待について

今、ジャック・デリダの「歓待について」という本を読んでいます。デリダアルジェリア出身のユダヤ系フランス人哲学者で、彼の思想の要素は、私にとって魅力的なものが多いです。(この「歓待」だけでなく、「赦すこと」「脱構築」等々。)

いかんせん難しくて、ぶっちゃけちゃんと理解できていないのでざっくりとした私の解釈になってしまいますが、ここで述べられている「歓待」とは、「条件付きでない、無条件の歓待」です。個人レベルでも共同体レベルでも、それはほぼ不可能に近いものですが、このような民族間の衝突を考えるときには、非常に参考になる概念なのかなぁと思います。