ヨシナシブイシ

さかもとさんを目で追うV6ファンの備忘録

舞台「オスロ」によせて パレスチナ/イスラエル問題簡易版

舞台「オスロ」の日本版上演が決まりましたね。坂本さんは、当時互いを認めていなかったイスラエルパレスチナの間を取り持つ秘密交渉を行い、オスロ合意に多大な貢献をしたノルウェー人主人公を演じるとのことです。

 

ただ、このパレスチナ/イスラエル問題、歴史的な要因、政治・経済的な思惑、宗教の違い、帝国主義の遺産等様々な要因が密接につながって泥沼化しているので、あまり良くわからないという人も多いと思います。

それでも、舞台をきっかけにこの問題に触れようと思う方も多いと思いますので、できるだけわかりやすくまとめてみました。といっても、その長い歴史等についても触れないわけにはいかないので、そこそこの分量になってしまいました。

また、単純化するために、複雑な要素を強引に一般化したり、かなり暴論だったりする部分もありますが、どうかご容赦ください。私自身、わかっていないところもたくさんあるので、勉強したうえで、舞台が始まるまでに、参考文献等を合わせて改めて詳細な記事を書きたいと思っています。

【追記】

書きました。ここの記事はかなり曖昧なところもあるので、新しく書いた方を参照していただけたらと思います。

 

asasa-1113.hatenablog.com

 

 

asasa-1113.hatenablog.com

 

 

 

始めに一つお断りです。小さいころから、私の近い親類がパレスチナ難民を支援する活動を行ってきたことから、私にとってパレスチナ問題は身近なものであったと同時に、パレスチナ側を中心にニュースを見てきました。なので、知識的にも感情的にも、パレスチナに偏っている、と言えるかもしれません。私のスタンスを変えるつもりはありませんが、そのことを念頭に置いて見ていただければと思います。

 

 

 

パレスチナ/イスラエル問題を知る上で必要な背景

 

この問題に出てくる基本的な要素を、「宗教」と「国家・政府」と「民族」に分けて考えてみます。入り組んでいるうえ、どの立場に立つかによって定義や条件が変わるのでわかりにくいかもしれませんが、とりあえずなんとなくで把握してもらえればと思います。

 

宗教

登場する宗教は、「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」です。これらは預言者アブラハムという同じ源流を持ち、同じ唯一神を信仰しているため、「アブラハムの宗教」とまとめられたりします。

 

ユダヤ教

3つの宗教の中でもっとも古いです。

聖典はタナハ(キリスト教における旧約聖書と同じもの。アダムとイブの話とかノアの箱舟の話とか)。

パレスチナ/イスラエル問題において重要な要素としては、「カナンの地」という概念があります。カナンの地は、神からユダヤ人に与えられた土地とされており、それが現在のパレスチナにあたるのです。

 

キリスト教

ユダヤ教から派生しました。

聖典旧約聖書新約聖書。特に新約聖書(キリストがしたことをについて)を重視しています。

イエス・キリストが最重要人物(?)で、神のうち「子」要素が受肉した者とされ、人間であると同時に神でもあります。

金でキリストを売った裏切者ユダや、キリストを処刑した司祭らがユダヤ人であったことが、キリスト教徒がユダヤ教徒を迫害する宗教的な後ろ盾になりました。

 

イスラム

ユダヤ教キリスト教から派生しました。

聖典クルアーン

預言者ムハンマド唯一神アッラーより授かったクルアーンを重視し、偶像崇拝の禁止等の戒律が有名です。

 

そして、現在はイスラエル支配下にある「エルサレム」という都市は、それぞれの宗教において、下記のような理由から聖地となっています。

 

ユダヤ教:神から授けられた「カナンの地」にある。また、ユダヤ人による神殿が、ローマ帝国により破壊された際の遺構である「嘆きの壁」がある。

キリスト教:神の子であるイエスが、人間の罪を被って十字架にかけられたゴルゴタの丘がある。

イスラム教:預言者ムハンマドが、クルアーンを授かるためにエルサレムから昇天した。

 

民族

登場する民族は、主に「ユダヤ人」と「アラブ人」です。

 

ユダヤ

ユダヤ教を信仰している、もしくはユダヤ人を母親に持つ人たちです。一般的に、ヨーロッパ系のユダヤ人が有名で、第二次世界大戦中、ナチスドイツによるホロコーストという悲劇を経験していることは多くの人が知っていると思います。ただ、「ユダヤ教を信仰している」という条件の下、ヨーロッパ人(白人)に限らず、身体的にはアラブ人だったり黒人だったりアジア人だったりすることもあります。

 

・アラブ人

アラビア語を話し、主にイスラム教を信仰する、中東地域に住む人たちです。「イスラム教を信仰している」ことが条件ではないので、ややこしいですが「アラブ系ユダヤ人(アラビア語を話し、イスラエル国外に住んでいるが、ユダヤ教信者なのでユダヤ人)」という人もいたりします。

パレスチナの地に住むアラブ人のことを、他のアラブ人と区別して「パレスチナ人」と呼ぶことも多いです。実際、文化的に違う民族と言えたりします。

 

国家・政府

登場する国家・政府主体は、主に「イスラエル」「パレスチナPLO)」「アメリカ」「アラブ諸国」の4つです。

 

イスラエル

長い間様々な国で迫害されてきたユダヤ人が、よりどころとなる国家を求めて、第二次世界大戦後に、今のパレスチナの地に建国した新しい国です。ただし現在では、国民全員がユダヤ教徒ユダヤ人であるわけではありません。ムスリムであるパレスチナ人やキリスト教徒も20%ほどいます。

 

パレスチナ

政治的な主体は、パレスチナ人によって選出されたPLOパレスチナ解放機構)です。パレスチナ人は「ガザ・ヨルダン川西岸地区に住む人たち」「周辺アラブ諸国に逃げ出した難民の人たち」「イスラエル建国後も、イスラエル国内に住み、イスラエル国籍を持つ人たち」等、その住む場所により様々な立場におかれています。PLOは主に、「ガザ・ヨルダン川西岸地区に住む人たち」を代表していると見なされています。

f:id:asasa_1113:20201117223452p:plain

 

アメリ

イスラエルを支援しています。ユダヤ人はアメリカ経済・政界にも大きな影響力を持っています。

 

アラブ諸国

パレスチナを支援しています。ただ近年は、パレスチナを除外して独自にイスラエルと国交正常化している国も出てきており、一枚岩ではありません。

 

パレスチナ」という言葉は、地域のことを指していたり、自治政府であるPLOのことを指していたりします。

また一口に「イスラエル」と言っても、シオニズム(後述)の色彩が強い人たちだけでなく、親がユダヤ人だからユダヤ人だけどあんまり宗教に関心がない、という今どきの若者や、ユダヤ教徒ですらなく、ただイスラエル国籍を持つだけのイスラエル人等、様々な人がいます。

このような言葉や定義の曖昧さが、この問題をとっつきづらくしている一因だと思います。

 

歴史(第二次世界大戦まで)

 

・紀元前

ユダヤ人(当時はヘブライ人と呼ばれた)は、(エジプトで奴隷になったりそこから解放されたりしながらも)神から与えられた地であるカナンの地に国を構えていました。しかし、新バビロニア王国に敗れると、バビロンに強制移住させられ、労働に従事しました。この200年ほどに渡る「バビロン捕囚」は、ユダヤ人のアイデンティティに大きな影響を与えました。過酷な環境の中で、律法を軸としたユダヤ人同士の宗教的な繋がりは強まり、彼らは約束の地カナンへの思いを強固にしました。

 

ローマ帝国による支配

バビロン捕囚から解放された後、ユダヤ人は再びイスラエルの地で暮らしていましたが、ローマ帝国により支配され、2世紀半ばごろには完全に離散したとされています。「ユダヤ教国家」を持たないユダヤ人は、各地で迫害を受けることになります。

 

パレスチナ地域支配の変遷

ローマ帝国により支配されたパレスチナは、上述のように3つの宗教の聖地であり、また東西世界の交通の要衝でもあったので、たびたび支配体制が変わりました。ローマ帝国のあとはイスラム帝国により支配され、その後の十字軍派遣のあとはエルサレム王国となり、その後は主にエジプト王朝により支配されました。そして、パレスチナ/イスラエル問題にいたる直前までは、オスマン帝国により支配されていました。いずれにせよ、少なくとも1500年ほどの間、主にアラブ人が住んでいたことになります。

 

現代の日本において、イスラム教は排他的でテロと結びついたイメージを持っている人もいるかと思います。

しかし、オスマン帝国をはじめ、歴史上パレスチナを長く領有してきたイスラム教国は、キリスト教ユダヤ教に対して寛容でした。信教の自由が認められただけでなく、同じ起源を持つ「啓典の民」として保護された側面もあります。

現在の排他的な色彩は、帝国主義ヨーロッパにより刺激された民族主義に因るところが大きいといえます。

 

ユダヤ人の迫害とシオニズム

各地に離散したユダヤ人は、キリスト教徒による迫害を受けていました。単に差別されるだけでなく、殺戮等も行われています。紀元前から考えれば、エジプトで奴隷になったり、バビロン捕囚があったりと、長い間迫害されてきたことになりますが、そのことが、約束の地カナン(イスラエル)への憧憬を強くしました。結果、ユダヤ人によるユダヤ教国家をイスラエルに建国しようという「シオニズム」がうまれました。シオニズムを掲げる人を「シオニスト」といいます。

そして、ユダヤ人迫害が最悪のかたちで現れたのが、第二次世界大戦中、ナチスドイツによるホロコーストです。当時、ナチス支配下にあった国や地域において、ユダヤ人は財産等を没収され、強制収容所へ送られました。そこで強制労働に従事させられた他、使えるか使えないか「選別」が行われ、使えないと判断された者はガス室で殺されました。この経験は、さらに大きいシオニズムの原動力となりました。

 

・イギリスの三枚舌外交

少し時間は戻って、第一次世界大戦後の話です。パレスチナを領有していたオスマン帝国は亡国の危機にありましたが、ローザンヌ条約により主権を回復しました。しかしその中で、パレスチナを手放すことになります。替わって委任統治したのがイギリスです。このイギリスによる三枚舌外交が、今日の混乱の大きな要因の一つとなっています。

簡単に言えば、アラブ人、ユダヤ人、フランス&ロシアそれぞれにいい顔をした結果、泥沼になってしまいました。

 

1915年 フセイン・マクマホン協定

まだオスマン帝国支配下にあったアラブ人に対して、アラブ人居住地の独立支持を約束しました。これによりアラブ人の反乱を煽り、オスマン帝国の弱体化を目論見ました。

 

1916年 サイクス・ピコ協定

フランス・ロシアとの間で、オスマン帝国の領地を山分けする秘密協定を結びました。(その後、ケマル・アタトゥルクによるトルコ共和国建国により、この計画は頓挫します。)この協定の中では、パレスチナは国際統治するとしていました。この時点で、アラブ人をこの地で独立させる気はなかったことになります。

 

1917年 バルフォア宣言

ユダヤ人資産家ロスチャイルドに対して、パレスチナの地にユダヤ人居住地を建設することを約束しました。ユダヤ人の豊富な資産を引き出すことを目的としていました。(実は、パレスチナに住む非ユダヤ人の権利を侵害しないということが明記されていましたが、後の状況を見ると反故にしていると言わざるを得ません。)

 

ユダヤ人と金融

ここで、ユダヤ人と金融のかかわりについて触れておきます。ユダヤ人は長い間迫害されてきたにもかかわらず、いわゆる資産家や著名な経済人が多いです。一見矛盾しているようですが、理由があります。

キリスト教において、(そしてユダヤ教でもイスラム教でも)、利子により儲けること、つまり高利貸しや銀行は、忌み嫌われていました。そこで、そのような下賤な職業を押し付けられたのが、迫害されていたユダヤ人だったのです。結果として、社会的地位は低いものの経済力が高い、という相反する状態におかれることになります。ナチスドイツによるユダヤ人政策の際も、「ドイツが賠償に苦しんでいるときも、ユダヤ人が金をかすめ取っている」という言説が用いられました。

しかしその資本力の高さが、ユダヤ人に対する社会的な迫害がなくなった現代においては、圧倒的に有利な力となりました。経済力の高さにより、アメリカ等の大国に強い影響力を持つことはもちろん、学術・芸術分野でも存在感が強いです。

 

歴史(第二次世界大戦後)

シオニズムの波に乗ったパレスチナ分割決議に端を発し、今日に至るまで、争いが続くことになります。

 

パレスチナ分割決議と中東戦争

1947年、イギリスはパレスチナにおけるユダヤ人の反発(バルフォア宣言の反故)が大きくなり統治が困難と判断し、委任統治を終了することにしました。終了後は、ユダヤ人国家とアラブ人国家が成立することになりました。そのために、どのように領土を分割するかを定めた、パレスチナ分割決議が採択されました。

この分割案は、ユダヤ人に有利なものでした。当時、人口の一割しかいないユダヤ人に、56%の土地が与えられることになったのです。その背景には、第二次世界大戦の時のユダヤ人差別に対する同情心や、資金援助への負い目があったとされています。

そして1948年、イスラエルは独立宣言を行い、イスラエルアラブ諸国との間で第一次中東戦争となりました。

 

一般的には「パレスチナ分割決議に対し、ユダヤ人は了承したものの、不満を持ったアラブ諸国が独立宣言を契機にイスラエルに攻め込み、第一次中東戦争となった」とされています。

しかし最新の研究では、ユダヤ人も分割決議を不服としており、表向き承諾しながらも、独立宣言より前からアラブ人居住区に侵攻し、虐殺を行っていたことが明らかとなっています。エルサレムが国際統治とされたことへの反発でした。

 

第一次中東戦争イスラエルが勝利し、分割案よりさらに多くの土地をイスラエルが獲得することになりました。

この時に発生したのが、いわゆるパレスチナ難民です。70~80万もの人が、土地を追われることになりました。彼らは、現在のガザ地区ヨルダン川西岸地区周辺諸国へと追いやられました。現在では、全世界の難民のうち5人に1人がパレスチナ難民であると言われています。

四度にわたる中東戦争により、パレスチナ人はどんどん苦しい状況に置かれました。イスラエルの軍政下におかれ、家屋や財を没収されてユダヤ人入植者に割り当てられたり、移動が厳しく制限されたりしました。また、さらに難民も増えました。

特に、第三次中東戦争後は、パレスチナ人のものと定められている「ガザ地区」「ヨルダン川西岸地区」「東エルサレム」がイスラエルに占領されました。これらの地域に対する実効的な支配は今日まで続いています。

このころには、アメリカを後ろ盾とするイスラエルは圧倒的に優勢となり、逆にパレスチナの後ろ盾となっていたアラブ諸国は徐々に手を引き始めました。



パレスチナ解放機構PLO)の成立

そのような中で、パレスチナ人の意思を示す組織として、パレスチナ解放機構(以下PLO)が結成されました。「パレスチナ人の民族自決権(自分たちのことを自分で決める権利」や「各地に離散させられているパレスチナ人が、パレスチナの地に帰還する権利」等を求めています。

1974年には、パレスチナ人を代表する組織として国際的に認識されるようになりました。

 

インティファーダ

1987年から、パレスチナ人によるインティファーダが起きました(第一次インティファーダ)。これは、イスラエル軍に対し、パレスチナ民衆が投石や納税拒否等により抗議を行うことを言い、イスラエルはこれに武力で応じました。PLOは、インティファーダをサポートしました。

「投石を行うパレスチナ人の少年に対し、イスラエル軍兵士が銃を向けている」という構図は、パレスチナ/イスラエル問題は、両者の間で解決されるべきという空気になっていた世界に対し、ある意味でのショックを与えました。

第一次インティファーダにより、パレスチナ人の死者は、子供300人を含む1200人を越え、負傷者は13万人に上るとされています。

 

オスロ合意

1991年、マドリードで中東和平会議が行われました。アメリカ主導で行われたものの、イスラエルPLOの参加を拒み、うまくいきませんでした。

拡大するインティファーダと、アメリカ主導の交渉の失敗を受け、動いたのがノルウェーでした。ノルウェーは、ナチスドイツによる迫害という共通項の下、親イスラエルの国でしたが、中東問題には実際的に関与しておらず、中立の立場で関わることができました。社会学者のテリエ・ラーセンは、外務省で中東を担当していた妻とともにパレスチナを訪れて衝撃を受け、和平に向けて動き出します。

当時、イスラエルパレスチナ双方は、互いの存在を認めていなかったため、表立った接触は不可能でした。そこで、ノルウェーの地で秘密裏に交渉が進められました。

そして、1993年、オスロ合意(正式名称:暫定自治政府原則の宣言)として結実することになったのです。当時のイスラエルのラビン首相とPLOアラファト議長の間で取り交わされました。

なお、ラビン首相はその後、パレスチナに対する態度に不満を持つイスラエルの右派青年により暗殺されます。

 

オスロ合意の要点は以下の二つです。

イスラエルを国家として、PLOパレスチナ自治政府として、互いを承認すること。

イスラエル軍が占領しているガザ地区ヨルダン川西岸地区から段階的に撤退し、5年にわたる自治を認めること。その後のことについては5年のうちに定める。

 

後述の通り、いくつもの構造的な問題を含むものでしたが、はじめて互いを承認し、和平に向けた意思確認を行ったという点で、画期的な出来事となりました。



オスロ合意の問題点

しかし、現在のパレスチナの状況からわかるように、結局、このオスロプロセスは失敗に終わってしまいました。その主な要因として、下記が考えられます。

 

イスラエル人による入植を禁じなかった。

イスラエルは、パレスチナに割り当てられた土地にもかかわらず、そこの家屋を破壊したりしてパレスチナ人を追い出し、そこに居住する入植活動を繰り返していました。

それを禁止する条項が盛り込まれなかったため、入植活動は一貫して続き、パレスチナ人を圧迫しています。オスロ合意後、入植地は4倍に拡大したと言われています。

ヨルダン川西岸地区では、自治区を取り囲む分断壁の建設も行われています。しかも、実際の自治区のラインより狭く、逆に水源等をイスラエル側に取り込むかたちとなっています。また、この壁を乗り越えて大規模な入植地を建設し続けています。

なお、まさに現在、例をみないほどイスラエルに肩入れしてきたトランプ大統領の敗北を受け、「駆け込み入植」現象が起きているとの報道もあります。

 

シオニズムのスローガンは「土地なき民に、民なき土地を」でした。土地なき民とはもちろんユダヤ人のことです。民なき土地を、はパレスチナの地を指す言葉ですが、見てきたようにパレスチナには長い間土着のアラブ人が生活していたため、民なき土地とは言えません。ここに、シオニストによるアラブ人の無視・軽視が見られ、現在の入植を正当化する価値観を見ることもできます。

 

パレスチナ民族自決権や国家建設が棚上げされた。(自治以上のものを認めなかった)

・ガザ、ヨルダン川西岸地区以外のパレスチナ難民やイスラエル国内のアラブ人の存在を背景化してしまった。

等々

 

オスロ合意後

前述したように、合意後も入植や実効支配が続いたことで、パレスチナ人の間に失望が広がります。そして、2000年に、当時のイスラエルシャロン外相が、イスラム教の聖地であるアルクサモスクを挑発的に訪問したことに端を発し、第二次インティファーダが起こり、和平プロセスは絶望的になりました。

その後も、イスラエルによるパレスチナ自治区への爆撃は断続的に続いています。



さいごに

以上、できるだけ単純化して、オスロ合意にいたるまでの道のりを書いてみました。

今回の舞台の主題であるオスロ合意は、30年近くたった今では、パレスチナ側にとって不利な構造的問題が取り上げられることが多いです。確かに、私もそう思っています。

しかし、現在に至るまで問題が解決されていない要因は、オスロ合意にのみ帰されるべきではない、とも考えています。

どんな問題でも、最初からすべてを解決することは不可能です。まずはブレイクスルーが大切であり、そしてその後どうやって物事を積み上げていくかにかかっていると思います。

例えば、フランス人権宣言においても、保証されていたのは市民権を持つ白人男性のみでした。しかし、その後、長い時間をかけて女性や子供、異民族、奴隷とさまざまな立場の人の人権を獲得してきました。未だ完全でないにしろ、それが「フランス人権宣言が不完全だったからだ」とは言えないと思います。

同じように、オスロ合意についても、ブレイクスルーを目指した当事者たちの想いは本物で、さらに大事なのはその後どのような行動をとっていくかにあると思います。

 

現在の状況を見ると、私はどうしても、イスラエルの行動に正当性を見出すことはできません。それでも、一面的に見ないようにする姿勢は取り続けたいと思います。

パレスチナにおいても、PLOの政治的な腐敗や暴力を伴う内部分裂があります。

イスラエル国内外のユダヤ人でも、シオニズムに反対し、パレスチナを支援する人たちがいます。

そして、パレスチナ人とイスラエル人とで、平和に向けて協力しながら活動している人たちも大勢います。

楽観的にも悲観的にもならずに、どうすれば平和が訪れるのか、同じ地球人である日本人の私も考え続けたいと思っています。