凍える 感想
パルコ・プロデュース2022「凍える」、観劇してきたので感想、思ったことのメモです。
脱線ばかりになってしまいましたが連想ゲームの備忘録として残しておきます。
・はじめに
元々罪と赦しについては強い関心を抱いてきたため、(表現的に不適当ではあるが)とても楽しく見られた。
アニータのように分析的な見方をしてしまいがちな己を振り返って、身につまされる思いがした。個人的に強い憎しみを抱くようなことも、それを感じている人と身近に関わっているようなこともない以上、このあとつらつら書くこともすべて抽象的で理念的な話になってしまう。
それでも、すべてに先だって、圧倒的に現実的で血の通った「罪」が現に存在する。それを常に念頭に置かなくてはならないと思った。
それを踏まえたうえで、改めて考えてみる。
・加害者と責任
まずは加害者側について。ラルフのような、強い精神的ストレスや外的要因によって、「普通の」倫理観を欠落させてしまった人が犯した罪にどう向き合うべきか。
そもそも「異常な」人間という観念そのものが、近代において創出されたものであるということは、フーコーによって指摘されたことだ。(「監獄の誕生」)この正常/異常のアンビバレントな感覚は、作中でも現れている。「異常」なラルフを分析するアニータは、「正常」だからこそ自分の罪、一夜の不倫の罪に自覚的である。では、脳構造的に悪意なく殺人を犯したラルフと、罪であると自覚できる中でそれでも過ちを犯したアニータとでは、どちらがより「異常」なのか?失われたものの大きさがあまりに違うとはいえ、一方が一方を断罪できる問題でもない。
そしてそれは同時に、「異常者」を「異常者」として扱うことの加害性にも繋がる。パンフレットの寄稿にもあったように、虐待された人間がすべて加害者になるわけではない。むしろ、様々なハンディキャップを抱え、より弱者の立場に押しやられることの方が多い。(特例的な「加害者」を取り上げることの危険性を強く指摘することは、このような題材を取り上げた舞台のパンフレットとして非常に重要なことだと思う。)
私たちが一方的に「安全な世界」を守ることは、その加害性と表裏一体なのである。
身体的要因、環境的要因、社会的要因…と考えていくと、いかにその線引きが難しいか、そしてどれだけそれを無視してしまっているかを知る。
これに対するアプローチとして、いくつか個人的に気になっているものを挙げておく。
ひとつは中動態という概念について。近年、國分巧一朗が再評価して取り上げたことでよく目にするようになった言葉だ。彼の著作である「中動態の世界」や、熊谷医師との共著「責任の生成」は、今回のテーマとも深くかかわっている。一般的な能動/受動の対立軸とは位相を異にする概念である。
元来、古代西洋の言語体系(たしかギリシア語系)の中には「中動態」という態が存在していた。中動態では、その述語が意味する行為や状態の場が主語にある状態であることを表現している。わかりやすい例として紹介されているのが「惚れる」という行為だ。「惚れる」は、する側が意図してする行為ではなく、かといってされる側がそうさせる行為でもない。医師とは関係なく、否応なしに発生し、する側=主語側のなかに生じる状態である。これが中動態だ。
しかし、これが能動/受動という対立軸に置き換えられることで、すべての行為が「意図的に」あるいは「意志のもとに」行われるとされ、責任概念の生成につながったと、ざっと言えばそういう話だ。(多分)
今回の舞台に限らず、他の犯罪にも置き換えると、加害者の身体的特性(脳の特性を含む)によって引き起こされた犯罪は、本当に「責任」を伴うものなのか?現れているのは現象ではないだろうか。
一方で、同じくらい自分に引き付けて考えているのが「灰色の領域」という概念である。これはナチスドイツの強制収容所から生還した、ユダヤ系イタリア人化学者・作家のプリーモ・レーヴィが言及したものだ。収容されたユダヤ人は完全なる被害者だ。レーヴィもそれは自覚し、眼をそらそうとするドイツ人に対しては厳しい態度で臨んでいる。しかし一方で、自らの加害者性も取り上げているのである。
曰く、他のユダヤ人を出し抜いてうまく食料を確保したり、外部に協力者を作ったり、化学者として強制労働を免除される機会があったりすることによって生き抜くことができた。「狡く」立ち回れなかった善人はみな死んでしまったのだという。
いわゆるサバイバーズ・ギルトといわれる感情に近い。構造的に強いられた「加害」だが、それを自らの加害として引き受けている。被害者性と加害者性を同時に持つ、非常に精神力を消耗する状態だ。これはラルフにもいえる。被害者であることと加害者であることは両立する。両立どころか、互いを補完しあっていることもある。
そして私たちにとっても他人事ではない。広い意味で私たちに拡大できるものではないだろうか。
ある程度関連することとして、最近刊行された「犠牲者意識ナショナリズム」という本がとても興味深かったのでおすすめ。
ラルフは被害者だ。あんな環境でなければ、誰かに救われていれば、「こんにちは」に対し正面から向き合ってくれる人がいれば、おそらくこんなことにはならなかった。しかし一方で、同じような虐待サバイバーにも、他人への思いやりを忘れずに生きている人もたくさんいる。そのラインが脳構造が傷ついたか否かという物理的なものだけに還元されるのか。
それでもやはり私は、ラルフもまた救われるべきだと思っている。
(そういえば「あなたの知らない脳」という本も、犯罪と脳と責任について考えるうえで有用だ。)
・被害者と赦し
とはいえ、ラルフにどんな事情があろうと、ローナとその遺族が絶対的な被害者である。
与えられる必要のなかった欠損を抱えて生きていくには、せめて、自らの心を解放してやることしか出来ない。そのために取れる手段は少ない。復讐、忘却、そして赦しだ。
後述する「アーミッシュの赦し」でも触れられているが、赦しには三つの段階を見ることができる。復讐権を放棄する「赦し」、加害者が罰から解放される「赦免」、被害者と加害者の関係を修復・昇華する「和解」だ。理想論だけでいえば、真の救済は和解であるが、簡単なことではない。なら、必要のない喪失を与えられてしまった被害者遺族の心を守ることがもっとも重要なことであり、第一段階の「赦し」を目指すことが道理だろう。つまり、ラルフのための赦しではなく、ナンシー自身を解放するための赦しだ。
デリダ的な「赦し得ないものを赦す」ことが赦しであるなら、あの場で起こったことは赦しではない。ローナの身に起きたことは「赦してしまうなんてあまりに酷すぎる」ことである。
だから、ナンシーが救われるために、ラルフと面会したことも、ローナが(ラルフとは違って)愛された一人の人間であったことを突きつけたことも、私には悪いとは思えない。例えもっと良い面会方法があったとしても、例えそれをきっかけにラルフが死んだとしても(ラルフは精神的にも肉体的にも深く傷ついた人間であり、あの場で母親を仮託したナンシーに受容してもらうこともできなかったのは大きな痛みだ)、私はそれは復讐ではないと思う。すべてナンシーの為の行動だ。
それでも、ラストシーンを見ても、ナンシーが吹っ切れて幸せになれたとも思えない。それが本当に悲しい。
赦しといえば、キリスト教を想起せざるをえない。「主の祈り」にも、交換条件的な神との契約関係にもとづく赦しが見受けられるし(「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」)、カトリックのサクラメントとしても告解があるように、キリスト教の教えの骨子には赦し行為がある。舞台装置が十字になっているのも、ラルフが最後にそのてっぺんで自死したのも、天使のタトゥーを入れているのも、イエスをオマージュさせるものだろう。
キリスト教における赦しと犯罪の典型的な一例として、アーミッシュの事件を連想した。
アメリカの保守的なキリスト教徒アーミッシュが、そのコミュニティ内で学校の立てこもり・児童殺害事件が発生した際、直後に犯人への赦しを表明し、議論を呼んだことがある。いくつか文献を読んだ限りでは、このアーミッシュの赦し行為はやはり、あくまで犯人に向かうものというより、神との契約の中でなすべきものであるという価値観に基づいているように見受けられた。しかし、そのある意味強制力を持つ赦しの行為のおかげで、犯人の家族を含めたコミュニティ全体で苦しみを共有し、癒しを見出そうとする取り組みができたともいえる。これはある意味、修復的司法の手法ともいえる。
修復的司法(修復的正義)とは、被害者がコントロールできる場において、被害者・加害者・地域社会が話し合い、起こってしまった悪事を踏まえ、未来志向で協同していこうとする手法だ。(私はルワンダ紛争について調べているときに知った。)繊細に舵取りをしないと新たな問題を招きかねない取り組みではあるものの、従来の報復型司法とは別の、真の意味での被害者救済・再発防止に繋がるあり方として有用な手段だと思っている。
改めて書くと、刑法的な罪に問えるかどうかという次元での「許し」と、被害者遺族感情としての「赦し」は別物である。アニータが繰り広げている身体的・環境的な要因による脳構造に起因する犯罪についての問題は、あくまで前者に関係するものであり、ナンシーが苦しんでいるのは後者である。刑法がどれほど変わろうが、またそれに付随して価値観がどのように変わろうが、感情として赦すことができるかどうか、が解決されることはないだろう。
そんな中で、舞台の中で、演じられたキャラクターと同等に気を引いたのはイングリッドである。妹をひいきする母親、そして自分の行動がきっかけの一つとなっていなくなってしまった妹。グレても向き合ってくれない両親。もっとも辛い立場にいたのはイングリッドだ。しかしそこから、自らの足で立ち直り、母親を救済しさえする。本当の意味で、母親への「赦し」を実践できているのはイングリッドではないだろうか、と感じられたのだ。そんなイングリッドが変わるきっかけのひとつが、愛と赦しの宗教であるキリスト教ではなく、仏教に触れたことであるのも面白い。
どの宗教についても当事者ではないので、部分的な知識による決めつけに拠ってしまうが、仏教、特にチベット仏教は世俗化した日本仏教と比較しても、原初仏教に近い、自己認識・宇宙認識の実践を主としているというイメージがある。制度化され、契約関係に基づいているキリスト教(アブラハムの宗教)とはまったく違うアプローチだ。特にラルフのような、それこそ責任の所在を問うにあたって一層の難しさがある加害者に対する赦しを考えるときは、結局は自己の中でどのように消化していくかが問題になってしまうのだろうか。
傲慢な理想主義者である私としては、やはり冒頭に書いた「和解」を目指すべきではないか、と思わざるをえないところもある。
・その他諸々
最後に、「赦し」「罪」といったテーマから外れて考えたことをいくつか。
大前提として、ラルフが虐待を受けなければ、あるいはそれを救い出し支えてくれるものがあれば、こんなことにはならなかった。虐待をする親の元に生まれるのは、全くの不運だ。本人にはどうしようもないところで、自分の人生、それに関わる無数の人生を狂わせることになる。
「実力も運のうち」が売れたり、成功は能力ではなく運によるものであることを証明する研究がイグノーベル賞を取ったりと、現在のネオリベ的自己責任論にノーを突きつける向きも活発になってきた。私たち一人一人の考え方を変えていかなければならない岐路に立っているだろう。
ラルフが「良心の呵責」を知ったような描写には少し疑問があった。脳構造的に倫理性を持てないはずなのになぜ精神的な痛みを覚えるのか?それは「奇跡」のような不確定要素を持ち出すもので、主題からそれるのではないかと思った。
しかしよくよく考えて、前々から思っていた「サイコパスと呼ばれる人が何故わざわざ猟奇殺人を犯すのか」というところに紐付けると少し理解できた気がした。
ラルフは構造的に共感性が著しく低い人間だが、コミュニケーションを取ることは求めている。「こんにちは」という印象的なセリフが象徴的だ。他害的な犯罪を犯すいわゆるサイコパスな人間は、他者を求めるという共感性の欠片が残っているタイプなのではないだろうか。本当に倫理観の欠片もないなら、わざわざ他者の反応を欲して犯罪を犯すなんてリスキーなことはしないだろう。(そういう人は、他人を意に介さず自分の利益を追求するタイプの経営者等になるのでは?)
最後に、ナンシーに対し、少し違和感を覚えたことについて。ローナの生還を信じ切る裏には、目をそらそうとしていたことがあったのではないだろうか。
小屋を通った時に気づくことができていれば、という後悔はあったが、あの時祖母のところにやらなければ、という後悔は(覚えている限りは)なかった。だが普通、一番に考えるのは、「あの時送り出さなければ」という後悔ではないだろうか。
そこに、ナンシーが無意識に退けている罪の意識があると感じられた。あの時、夫への不信感、イングリッドとローナの差別的な扱いの結果として、ローナを送り出していた。「あの小屋に気づけていれば」というのは、確かに後悔ではあるけれど、普通不可能なこと、仕方のないことである。一方で、ローナを一人で送り出したことは、小屋に気づくことよりずっと避けられた事態であった。しかしそれに直面すると、自らの本当の意味での過失に気づくことになってしまう。(むろん、そもそもラルフが犯罪を犯さなければ良かっただけの話であるし、ナンシーに事件の非は一切ない)
しかし、ナンシーの中に少なからずそのような気持ちがあったからこそ、ローナ行方不明後は、破綻していたはずの夫と接近し、逆にイングリッドのことは突き放したのではないだろうか。
・いちファンとしての感想
坂本さんのストレートプレイやドラマはいくつも見てきたが、一番好きな演技だった。(好きというと語弊があるけれど…)
醸し出される「どこか違う」雰囲気、理性と狂気、恐ろしさと哀れさ…。多重的な人間性が、その人生を生きてきた人として感じられた。本来の坂本さんはとてもまっとうな人で、それは無意識の所作にも現れていると思っているが、だからこそラルフの欠如が際立っていた。
坂本さん自身も大きな挑戦と言っていたし、ものすごく精神力を使う舞台だと思うが、本当に坂本さんで見られてよかった。というか君が人生にしてもOsloにしても、ストレートプレイのチョイスがストライクすぎるんだ…。ノーマンズランドも見たかった。
アイドルともミュージカル俳優とも違う、舞台俳優として、大きな意味を持つ舞台になったのではないかな、と思います。ますますファンになりました。
V6の好きな曲を語るだけ
前置きなしです。とにかく好きなV6曲を語ります。基本的にあいうえお順です。終わってみたら150曲以上約16,000字あって笑いました。曲名とか情報とか間違えてたらすみません!ちなみにgrooveツアーのネタバレに抵触しそうなところは除いてある(はずな)ので、あとで追加しようと思います。
- V6
- トニセン
- カミセン
- ソロ
- その他コンビ曲など
2021年3月12日に思うこと
ショックを受容するプロセスの一環として、これを書いています。ので、文脈はちゃめちゃです。
今日は、慢性的に不調が続いていたので念のため有休を取って病院に行き、帰りに本屋をぶらぶらしているような日でした。
満足したので電車で帰ろうとスマホを確認した時にメールに気がつき、正直こんな書き方で良いお知らせであったことはなかったので心のどこかで覚悟をしつつ、そのままV6の言葉を読みました。
混乱した心と、納得するための答え合わせをする思考とによりぼんやりした頭で、どう形容して良いかわからない状態でしたが、不思議とマイナスな感情は生まれませんでした。
文章から読み取れるのは私が知っているV6らしいV6だったので、彼らの選択ならきっと受け入れられるという確信があったからかもしれません。
それでも、どうしてもその場で動画を見るのは怖くて、こんな時にV6のどの曲を聴くのが相応しいかわからず何故かSimon &Garfunkelを聴きながら家路につきました。
落ち着いてから動画を見ると、そこにはやっぱり私の知っているV6がいました。こちらが不安に思いそうなことを事前にフォローしつつ、真剣に、かつちょっと戯けながら伝えてくれる姿、その思いやりが十分に伝わりました。
私の好きなV6が、V6らしく、今までの延長線上として彼らの言葉で語ってくれることだから、もうこれ以上のことはありません。
長い時間をかけてV6が出した結論なら、私はそれを受け止めたいと思っています。
もちろん本音をいえば、いつまでもV6を、そのメンバーの歌とダンスを見ていたいです。TLの歌ありパフォーマンスだって見たいしNOIZだって生で聴きたい、アニバコンとワンズコンしか行けていないのは少なすぎる、まだ生まれていないV6の曲たちに出会いたかった。何よりV6が6人でいる姿をずっと見たい。
私はV6担としては坂本担でトニ担だから、トニセンは存続するということで、ネクジェネやTTTにまだ希望があるけれど、カミ担はもっと辛いと思います。言葉もありません。
V6がなくなることは本当に悲しい。それぞれの活躍はこれからも続いて、それを私がたのしんだとしても、V6の代わりにはならない。解散を見据えた上で作り上げたコンサートがあの素晴らしいトニフィフコンだったこと、やっぱり私はV6が好きなんです。
こんなに最新が最高だから、正直解散の気配なんて全然感じていませんでした。
でも、後出しジャンケンで考えると、2015年の時点で先輩を見て身の振り方を考えると言っていた剛くんが、ここ数年の流れを見て何も感じないわけないですよね。
大きなきっかけは剛くんの想いだとは思いますが、剛くんの直感的に本質を見抜く力に対してメンバーが信頼を置いているからこその決断だったのだと思います。私も、そんな剛くんだからこそ好きなのです。彼はパフォーマンスも演技も天才です。
彼らがV6は6人と決めているのだから、私にできるのはそれを尊重すること、感情は追いつけなくても理性でそうしたい。
あまり冷静にTLも見られないけど、それでもファンだけでなく、彼らが今まで関わってきたひとたちから彼らが愛されていることが伝わってきて、悲しいけど嬉しく感じています。
2020年、区切りの良いタイミングで解散だったところを、満足なかたちで迎えられなかったから伸ばしてくれたのかな。Full Circleがなかなか出ない理由もそれなのかな。
ありがとう。
そして本当に個人的なことを言えば、私は、坂本さんのOsloをきっかけに、自分の中で逃げ続けていた向き合わなければならないことに向き合い始めていたところでした。私自身の人生についても考えていきたいと思います。彼らのおかげで、私の人生も変わっています。
アルバムもツアーも全力で楽しみます。
本当の意味で受け入れるまで時間はかかると思いますが、彼らのこれからが楽しみです。
パレスチナ/イスラエル問題について(第二次世界大戦後編)
この記事では、主に第二次世界大戦後を中心に、パレスチナ/イスラエル問題の経緯と現状を説明します。
それぞれの歴史を詳しく知りたい方は下の記事も合わせてご参照ください。
それではさっそく行きます!
基本情報
前回の記事で説明したもののうち、特に重要なものだけ超簡単に記載しておきます。
ユダヤ人
イスラエルの多くを占める人。歴史的にキリスト教徒による迫害を受けてきた。(ホロコースト等が有名。)
「迫害や差別から逃れるために、ユダヤ人によるユダヤ教国家をつくろう」という運動を「シオニズム」といい、イスラエル建国の大きな動機となっている。
アラブ人
もともと中東に広く住んでいて、今のイスラエルやパレスチナがある地域でもずっと生活していた人。今のパレスチナ人はほぼアラブ人に含まれる。
簡単な状況
今のイスラエルやパレスチナがある地域は、長年イスラム国家により統治されてきた。
しかし、イギリスが、ユダヤ人・アラブ人どちらにも「パレスチナ地域にユダヤ人国家(アラブ人国家)作っていいから、第一次世界大戦の間は協力してね」と約束した。しかし戦後はそれを反故にし、イギリス自身が統治していた。
それでは、第二次世界大戦後、現在に至るまで見てみましょう。
歴史(第二次世界大戦後から)
ユダヤ人のパレスチナへの流入
迫害が続き、シオニズムが高まる中で、徐々にユダヤ人によるパレスチナへの移住も行われていました。
当初は、アラブ人が住む土地をユダヤ資本の下に買い上げ、そこにユダヤ人が居住するというかたちで進んでいました。
しかしその後、下に挙げたような契機毎に一気にユダヤ人の流入が加速し、事態が変わってきます。
・ロシアにおけるユダヤ人迫害行為(ポグロム)から逃れるため、ロシア系ユダヤ人の大規模な流入。
当初こそ、アラブ人とユダヤ人は共存していましたが、ユダヤ人による閉鎖的な共同体(キブツ)が拡大するにつれ、徐々に衝突が発生するようになりました。
イスラエル建国宣言
イギリスはもともと、イスラム圏に対するキリスト教圏の最前線(アラブ地域にありながら、「ヨーロッパの飛び地」としての機能)として、パレスチナの統治を重視していました。しかし、アラブ人・ユダヤ人双方の対立や反乱に手を焼き、1947年、これ以上の統治は困難と判断し委任統治を終了することにしました。
委任統治終了後は、ユダヤ人国家とアラブ人国家が成立することになりました。
パレスチナを「神に与えられた土地」とみなして特別視するユダヤ人のシオニズムと、「ヨーロッパの飛び地」としての機能を継続したい&ヨーロッパ地域内に建国されるのは都合が悪いというヨーロッパ各国の思惑が合わさり、パレスチナの地での建国が決まりました。
当然、そこにもともと居住していたアラブ人からは反対の声があがりました。アラブ人の土地として暮らしていく中でユダヤ人も受け入れていくならともかく、いきなりユダヤ教国家が建国するとなったら話は違います。
しかし、最終的に、国連によるパレスチナ分割案(パレスチナをユダヤ人とアラブ人それぞれの国に分ける案)が採択されました。
この分割案は、ユダヤ人に有利なものでした。当時、この地域の人口の三割しかいないユダヤ人に、56%の土地が与えられることになったのです。
アラブ諸国は反対しましたが、アメリカとシオニスト団体の買収と圧力により、多くの国が賛成票を投じました。(ちなみに、当のイギリスは棄権しています。)
そして、1948年、イギリスの委任統治が終了するその日に、アラブの承認を得ないまま、イスラエルは建国宣言を行いました。
中東戦争
不平等な分割案を基にしたイスラエル建国を不服としたアラブ諸国が侵攻し、第一次中東戦争が勃発しました。
これがパレスチナ難民の始まりと言われています。イスラエルにとっての建国記念日は、パレスチナ人にとっての大破局(ナクバ)です。詳しくは次の項目で記載します。
一般的には、このアラブ側からの侵攻により、武力衝突が始まったとされていますが、実際には、イスラエル建国宣言以前から、パレスチナは内紛状態でした。分割案に不満を持っていたアラブ人だけでなく、エルサレムが国際統治とされたことに対してイスラエル側も不満を持っていました。(エルサレムはユダヤ教にとってもイスラム教にとっても聖地。詳しくは前の記事を参照。)ユダヤ人居住地域からエルサレムへの進路上にあるパレスチナ人の村を侵攻し、虐殺を行なったりしました。(デイル・ヤースィーン村虐殺事件)
第一次中東戦争では、当初こそアラブ諸国が優勢でした。しかし、これらの国々同士はそれぞれ対立しており、一枚岩ではありませんでした。結果としてイスラエルが勝利し、分割案よりさらに多くの土地、地域全体の75%をイスラエルが支配することになりました。この時の停戦ラインを「グリーンライン」といい、現在の二国間解決の際の指標とされることが多いです。
パレスチナ難民の発生
この内紛や戦争に前後して発生したのが、いわゆるパレスチナ難民です。戦火から逃れようとした人たちだけでなく、一時的な避難のつもりで土地を離れた人も多かったのですが、その後ずっと、イスラエル圏内への帰還が叶わない状態となっています。70~80万もの人が、土地を追われることになりました。彼らは、現在のガザ地区、ヨルダン川西岸地区、周辺諸国へと追いやられました。今では、全世界の難民のうち5人に1人がパレスチナ難民であると言われています。
ここで、パレスチナ人が居住している主な地域それぞれの特徴と、現在の状況を見てみます。
ガザ地区
地中海に面し、エジプトと接した小さな地域です。ここは世界で一番人口密度が高い地域と呼ばれています。現在では、強硬派のハマース(後述)の拠点とされているため、断続的にイスラエル軍による武力行使が行われています。(当然、民間人の被害も甚大)
また、イスラエルによる締め付けが最も厳しい地域でもあるため、満足な経済活動ができないだけでなく、各国による支援物資もイスラエルによって制限され、苦しい生活を強いられています。
ヨルダン川西岸地区
内陸に位置する、比較的広い地域です。ここでは、イスラエルによる分離壁の建設が進められています。この分離壁は、グリーンラインよりも、パレスチナにとって狭く、イスラエルにとって広いラインで建設されています。また、本来ならパレスチナ側にあるはずの水源等の資源も、イスラエル側に取り込むように建設されています。
イスラエル人による入植(後述)も盛んな地域となっています。
国外の難民
レバノンを始め、周辺諸国に難民として居住しているパレスチナ人も多く存在します。難民という立場であるため、それぞれの国での行動や経済活動は制限され、国連による支援も年々減少しています。(もっと細かく見れば、その居住地域や難民となった時期によって、様々な立場に置かれています。)
周辺諸国の政治状況の影響ももろに受けてしまうため、難民キャンプはたびたび戦場となり、数万規模の犠牲者が発生しています。
ガザ地区、ヨルダン川西岸地区の住民は、苦しいながらもまだ「パレスチナの領地」で生活していると言え、「パレスチナ/イスラエル問題」において主体として取り上げられますが、これら難民はさらに立場が複雑なため、苦しい現状に置かれていると言えます。
イスラエル国内
もともとは、地域全体にアラブ人が居住していたため、難民となることを逃れ、イスラエル国内に居住し続けるパレスチナ人もいます。このようなイスラエル国内のムスリムとしてのパレスチナ人やキリスト教徒は、イスラエル人口の二割にも上ります。
しかし、二級国民と位置づけられており、世界中からイスラエルに移住してきたユダヤ人よりも下の立場に置かれ、制度的にも差別的な扱いを受けています。
第二~第四中東戦争
四度にわたる中東戦争により、パレスチナ人はどんどん苦しい状況に置かれました。イスラエルの軍政下におかれ、家屋や財を没収されてユダヤ人入植者に割り当てられたり、移動が厳しく制限されたりしました。また、さらに難民も増えました。
特に、第三次中東戦争では、イスラエルはゴラン高原等の広範囲を支配することになりました。難民も多数発生し、パレスチナ人のものと定められている「ガザ地区」「ヨルダン川西岸地区」「東エルサレム」もイスラエルに占領されました。これらの地域に対する実効的な支配は今日まで続いています。
このころには、イスラエルはアメリカとさらに接近し、その後ろ盾をもとに圧倒的に優勢となり、逆にパレスチナの後ろ盾となっていたアラブ諸国は徐々に手を引き始めました。
アメリカ国内でユダヤ・ロビー活動が大きな影響力を持っているだけでなく、イスラエルが中東における軍事大国としての存在感を確立していったことが、アメリカのイスラエル支持に拍車をかけました。
パレスチナ解放機構(PLO)の成立
そのような中で、パレスチナ人の意思を示す組織として、パレスチナ解放機構(以下PLO)が結成されました。「パレスチナ人の民族自決権(自分たちのことを自分で決める権利」や「各地に離散させられているパレスチナ人が、パレスチナの地に帰還する権利」等を求めていました。
いくつかの組織から成っていますが、中心となったのは、反イスラエル闘争でパレスチナ人の支持を集めていたファタハでした。ファタハは、イスラエルの武力行使に対抗する武装集団として、アラファトとジハードにより組織されました。パレスチナ人からは、英雄的な組織として支持を集めていました。しかしその後、アラファトがPLOの議長となり、イスラエルとの衝突によりその拠点を何度か移してからは、強硬的な姿勢が緩和されました。
1974年には、パレスチナ人を代表する組織として国際的に認識されるようになりました。
インティファーダ
1987年から、パレスチナ人によるインティファーダが起きました(第一次インティファーダ)。イスラエル軍に対し、パレスチナ民衆が投石や納税拒否等により抗議を行うことを言い、イスラエルはこれに武力で応じました。PLOは、インティファーダをサポートしました。
「イスラエル軍の戦車に対し、投石を行うパレスチナ人の少年」という構図は、「差別されてきたユダヤ人の国家であるイスラエルは弱者である」「パレスチナ/イスラエル問題は当事者である両者の間で解決されるべき」という空気になっていた世界に対しショックを与えました。
第一次インティファーダによるパレスチナ人の死者は、子供300人を含む1200人を越え、負傷者は13万人に上るとされています。
この流れに乗り、1988年、PLOはパレスチナ独立宣言を行いました。イスラエルと共存し、ガザ地区・ヨルダン川西岸地区での独立国家建設を宣言するものでした。
湾岸戦争
しかし、その後の湾岸戦争で、世界から非難を浴びていたイランに同調したため、再び国際世論の支持を失ってしまいました。
アメリカへの反発からイスラエルへミサイル攻撃を行ったイランのフセイン大統領は、パレスチナ人にとって歓迎すべき存在でした。しかし、湾岸戦争のきっかけとなったイランのクウェート侵攻は国際的に容認し得ない行為だったため、そんなイランに同調するパレスチナは各国からの支援が打ち切られることになってしまったのです。
結果的に、PLOは財政難に苦しむことになります。
オスロ合意
1991年、マドリードで中東和平会議が行われました。アメリカ主導のもと、イスラエルとパレスチナの代表が同じテーブルにつきました。しかし、イスラエルはパレスチナ代表としてPLOが参加することを拒み、うまくいきませんでした。
拡大するインティファーダと、アメリカ主導の交渉の失敗を受け、秘密裏にノルウェーが動きました。ノルウェーは、ナチスドイツによる迫害という共通項の下、親イスラエルの国でした。とはいえ、中東問題には実際的に関与していなかったため、比較的中立の立場で関わることができました。
当時、イスラエル・パレスチナ双方は、互いの存在を認めていなかったため、表立った接触は不可能でした。そこで、ノルウェーの地で秘密裏に交渉が進められました。
そして、1993年、オスロ合意(正式名称:暫定自治政府原則の宣言)として結実することになったのです。当時のイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間で取り交わされました。
アラファト議長は、前述の通りPLO第一党のファタハの人です。ラビン首相は、中東戦争の指揮を執ったりしていた元軍人でしたが、比較的和平交渉に積極的でした。しかし彼はその後、パレスチナに対する態度に不満を持つイスラエルの右派青年により暗殺されます。
オスロ合意の要点として、以下の二点が挙げられます。
・イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として、互いを承認すること。
・イスラエル軍が占領しているガザ地区、ヨルダン川西岸地区から段階的に撤退し、5年にわたる自治を認めること。その後のことについては5年のうちに定める。
はじめて互いを承認し、和平に向けた意思確認を行ったという点で、画期的な出来事となりました。
これまで、イスラエルはPLOの存在を認めていなかったため、交渉する相手はいない、パレスチナ人を主体とするような問題もないという立場でした。またPLO側も、イスラエルを国として認めていませんでした。そのような状態から、初めて、これからに向けて同じテーブルで話をする準備が整ったのです。
しかし、片や国として成立し50年ほどが経ったイスラエル、片や「ゲリラ」と呼ばれた国国を持たないパレスチナ人。この両者が同じテーブルに座った時点で、真に平等な話し合いは難しく、不公平は始まっていました。
ともかく、オスロ合意に基づき、PLOの流れを汲むパレスチナ暫定自治政府が成立し、アラファトが初代元首となりました。
オスロ合意の問題点
現在のパレスチナの状況からわかるように、結局、このオスロプロセスは失敗に終わってしまいました。ここからは、その主な要因と、そこから繋がる現在のパレスチナの状況について記載します。
◆要因
・イスラエル人による入植を禁じなかった。
・パレスチナの民族自決権や国家建設が棚上げされた。(自治以上のものを認めなかった)
・ガザ、ヨルダン川西岸地区以外のパレスチナ難民やイスラエル国内のアラブ人の存在を背景化してしまった。
・パレスチナ内部の分裂を招いた。
イスラエル人による入植を禁じなかった。
イスラエルは、パレスチナに割り当てられた土地にもかかわらず、そこの家屋を破壊したりしてパレスチナ人を追い出し、そこに居住する入植活動を繰り返していました。イスラエル軍による統治は段階的に縮小するとしたものの、入植行為を禁止する条項は盛り込まれなかったため、入植行為は一貫して続きました。
入植行為を読み解くため、理解しておきたいシオニズム
パレスチナ自治区に対する入植行為は、明確に国際法違反です。にもかかわらず、依然としてイスラエルが入植をやめない思想的な理由が、やはりシオニズムにあります。ここでは、シオニズムについてもう少し詳しく、その二大潮流を見てみます。
・ 政治的シオニズム
政治的シオニズムとは、政治的な手段を以て、パレスチナの地にユダヤ国家としてのイスラエルを建設することを掲げており、それに伴うパレスチナへの入植も容認する立場です。
政治的シオニズムの中にも、右派と左派があります。
右派は、パレスチナの地からパレスチナ人を全て排除し(武力行使を厭わない)、純粋なユダヤ国家としてのイスラエルを目指す立場。イスラエル二大政党のうちのリクード党が掲げており、現在のネタニエフ首相もこの立場です。
左派は、武力行使を極力排し、平和的解決を目指している立場です。しかし同時に、現在入植活動により占領している地域はイスラエルのものである、としています。この入植地はもちろん、国際法上ではパレスチナのものです。
二大政党のもう一方である労働党が掲げており、オスロ合意を行った時のラビン首相はこちらです。
いずれにしても、手段が暴力的かそうじゃないかの違いだけで、現在のイスラエル二大政党どちらも、イスラエルのための入植は容認していることになります。
イスラエル建国を目指した20世紀初頭のシオニストによるスローガンは「土地なき民に、民なき土地を」でした。土地なき民とはもちろんユダヤ人のことです。民なき土地を、はパレスチナの地を指す言葉ですが、ここまで見てきたように、パレスチナには長い間土着のアラブ人が生活していたため、民なき土地とは言えません。ここに、シオニストによるアラブ人の無視・軽視が見られ、現在の入植を正当化する価値観を見ることもできます。
文化的シオニズム
対して、文化的シオニズムは、必ずしも物理的なパレスチナの地への入植を必要としていません。世界でディアスポラ状態にあるユダヤ文化の精神的な支柱としてパレスチナの地を据えている、言葉の通り文化的な意味合いでのシオニズムとなります。
中には、長い間にわたってディアスポラの状態にあったこと、他の文化と同化せずに客観的な立場をとることができたことこそがユダヤ文化の特徴であり、イスラエルという固定化した国家建設はそのユダヤ文化の破壊である、という立場の人もいます。
超正統派(背高帽子に長いひげの人)の人たちにとっては、暴力で手に入れた土地は国として認められないという立場の人もいます。
入植行為の現在
イスラエルによる入植行為は、2020年現在でも行われています。オスロ合意後、入植地は4倍に拡大したと言われています。中には数万人規模で居住している地区もあり、インフラや教育機関も整備された完全な町として機能しています。
入植行為による問題点は、単に土地を奪うという点だけではありません。パレスチナ自治区では経済活動も制限されているため、いっそうパレスチナの自立が難しくなっています。
かつてはパレスチナ人も入植地で働いていましたが、2000年代の初めまでのことでした。それ以降は労働力としても(極少数の例外を除いて)パレスチナ人を必要としない政策に変わっています。
なお、まさに現在、例をみないほどイスラエルに肩入れしてきたトランプ大統領の敗北を受け、「駆け込み入植」現象が起きているとの報道もあります。(トランプ大統領は、長く国際社会から非難されている入植活動を、アメリカ大統領として初めて「正当性のある行為だ」と認めています。)
また、これに関連する事項として、分断壁があります。ヨルダン川西岸地区では、自治区を取り囲むように、イスラエルによる分断壁の建設が行われています。しかも、実際の自治区のラインより(パレスチナにとって)狭く、逆に水源等をイスラエル側に取り込むかたちとなっています。さらに、この壁を乗り越えてまで大規模な入植地を建設し続けています。
日本でも話題に上るようになったバンクシーは、分断壁や入植地で積極的にストリートアートの制作を行ったりしています。(「世界一眺めの悪いホテル」等が有名。)
では、オスロ合意の問題点に戻ります。
パレスチナの民族自決権や国家建設が棚上げされた。(自治以上のものを認めなかった)
オスロ合意が持っている問題点の二つ目は、問題の先送りです。たしかに、それまで認められていなかったパレスチナの暫定自治政府が成立することになったのは大きな成果でした。しかし、オスロ合意の中で認められた自治は5年間、それ以降については定められていません。
5年経ったのちの最終交渉では、パレスチナ人の帰還等、問題を解決する上での最重要事項について話し合われましたが、決裂してしまいました。
ガザ、ヨルダン川西岸地区以外のパレスチナ難民やイスラエル国内のアラブ人の存在を背景化してしまった。
オスロ合意の経緯から、パレスチナ暫定自治政府は、PLOとほぼ重複、同義となっています。しかし、ガザ地区・ヨルダン川西岸地区を代表してはいるものの、それ以外の難民等とは直接関わりがありません。「パレスチナ人」総体を代表できるような選挙制度になっていないにもかかわらず、暫定自治政府がパレスチナ人の代表と扱われていることにより、難民の人たち等が問題の範囲外に置かれてしまっています。
パレスチナ内部の分裂を招いた。
オスロ合意に向けての交渉は秘密裏に行われたため、当然、PLO以外のパレスチナ勢力に不信感を抱かせるきっかけとなりました。
現在パレスチナにおいて勢力を拡大している対イスラエル強硬派ハマースも、暫定自治政府の中心となっていたファタハと対立しています。ハマースは軍事組織であるだけでなく、慈善部門にも力を入れているため、一定の支持を得ているのです。
しかし、ハマースによりガザ地区に作られた学校や病院は、その地下に軍事拠点があるとしてイスラエルによる攻撃の対象となっています。ガザ地区は世界で一番人口密度が高い地域と言われるほどの狭さなので、軍事拠点と一般住民の生活圏が重複せざるを得ない状況にあるとも言えます。イスラエルによるガザ地区攻撃により、子どもを含むパレスチナ民間人は1000人単位で亡くなっています。
現在の自治政府は、ヨルダン川西岸地区を拠点にするファタハが大統領職を、ガザ地区を拠点にするハマースが首相職を有し、事実上分裂状態にあります。
イスラエル/パレスチナ問題の現在
以上記載したように、オスロ合意に基づく和平交渉は、残念ながらあまり成果を得ませんでした。
その失敗が明白なりつつあった2000年9月、イスラエルのシャロンが、エルサレムにあるイスラム教の聖地に入りました。聖地であり、不正に実効支配している場所でもあるため、明らかにパレスチナ人への挑発行為でした。これを契機に第二次インティファーダが始まり、両者は決裂することになります。
またこの第二次インティファーダにより、パレスチナ内部では武闘派のハマースが力をつけ、前述した分裂の一因となりました。
イスラムとテロについて
ちょうど第二次インティファーダから1年経ったころ、9.11が発生したことでテロとの戦いが表面化し、しかもテロ=イスラム、という図式が出来上がりました。そうした流れを利用して、イスラエルは自分たちを非難する人たちを「反ユダヤ主義」と呼び、パレスチナ人の抗議行動・報復行動を「テロ」と呼ぶようになりました。
世界中の人がホロコーストを知っているので、「それは反ユダヤ主義だ」といわれてしまうと、なかなか批判できません。
そしてイスラエルは自身による攻撃を全て、攻撃ではなく報復と呼びます。そういったレッテル貼りを使って周囲からの言論を封じ込め、正当化しています。
「テロ行為」とされるものを安易にイスラム教徒と結びつけるのではなく、それを封じ込めている側の行為にも果たして正当性があるのか、そもそもそれはテロと呼ばれる行為なのか。そういった問い直しも必要だと思います。
現在進行形の状況
ここまで見ればわかるように、パレスチナ/イスラエル問題は単なる宗教問題ではなく、むしろ政治的要因・経済的要因が大きいと言えることがわかると思います。そして、この問題は今もなお続いています。
わかりやすいところで言えば、トランプ大統領によるイスラエル国内のアメリカ大使館のエルサレムへの移転が挙げられます。ここまで読んだ人はピンとくるかもしれませんが、エルサレムは、本来国際統治とされるべきところであるにも関わらず、イスラエルが実効支配しています。大使館は国の首都に置かれるものなので、この支配が不当だと見なす世界各国は、国際的に首都と認められているテレアビブに大使館をおいています。しかし、トランプ大統領がアメリカ大使館をエルサレムに置くとしたということは、イスラエルによる不当占拠をアメリカが容認しているということと同義になります。(トランプ大統領のブレーンの娘婿はユダヤ人であり、娘自身もユダヤ教に改宗していることは無関係ではないでしょう。)
この辺りの力関係も、今回のトランプ大統領の敗北により変わってくるでしょう。まさに現在進行形の問題なのです。
日本にとってもまた、無関係ではありません。第二次世界大戦後の日本は、(中東関係では一部独自路線もあるものの)基本的にアメリカに同調する姿勢をとってきました。そのため、世界137の国連加盟国がパレスチナを国として承認していますが、日本は国として認めていません。
また、2019年にはイスラエルとの武器共同開発に向け覚書を交わしています。イスラエルは世界屈指の武器開発国ですが、この最新鋭の武器はもちろん、ガザ地区等に使用されています。
最後に
以上、ブログとしてはかなり長くなりましたが、いったんここで終わりにします。
どのような歴史があり、その中でオスロ合意はどのような位置づけで、そしてパレスチナ/イスラエルの現状がどうなっているか、少しでも知っていただけたら嬉しいです。これらの背景を知ったうえで観劇することで、きっと舞台の深みも増すと思います。
私自身、この問題に少なからず関心を持っていたものの、今回ブログを書くにあたっていろいろ調べたことで、とても勉強になりました。
なによりもまず、この問題は現在も続いているものなので、「舞台で描かれたおはなし」で終わってしまってはだめだなぁと思います。
そして、現在の新型コロナウイルスの拡大とそれに伴う緊急事態宣言の中で、坂本さんをはじめとした関係者の方々は、舞台を開演するということに対して通常以上に奔走されていると思います。
私たちは待つことしかできませんが、文化を止めることなく、無事何事もなく千穐楽を迎えられたらと祈るばかりです。
参考文献
「まんが パレスチナ問題」山井教雄著 2005年1月(講談社現代新書)
「続 まんが パレスチナ問題」山井教雄著 2015年8月(講談社現代新書)
(↑この2冊はイラスト中心でさっと読めるので、入門としておすすめです)
「世界史の中のパレスチナ問題」臼杵陽著 2013年1月(講談社現代新書)
(↑幅広い側面からより詳しく知るのにおすすめです)
「パレスチナ/イスラエル論」早尾貴紀著 2020年3月(有志舎)
「ユダヤとイスラエルのあいだ 民族/国民のアポリア」早尾貴紀著 2000年3月(青土社)
「パレスチナとは何か」エドワード・W・サイード著 2005年8月(岩波現代文庫)
「イスラエル 兵役拒否者からの手紙」ペレツ・キドロン著 2003年1月(日本放送出版協会)
「オスロ合意から20年 パレスチナ/イスラエルの変容と課題」今野泰三、鶴見太郎、武田祥英編 NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点中東パレスチナ研究班 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/tokyo-ias/nihu/publications/mers09/mers09_fulltext.pdf
(↑オスロ合意の問題点についての論文集です。公開されています)
「ハイファに戻って/太陽の男たち」ガッサーン・カナファーニー著 1978年5月(河出書房新社)
(↑第一次中東戦争の際にパレスチナを追われた著者による小説です。より生々しく理解することができると思います。なお、この著者は36歳の時に姪と共に爆殺されています)
参考サイト
世界史の窓 各関連ページ